この「動けなさ」は日本語の発話のシステムと関係があると思っている。
— 近本洋一☆すばる5月号に最新作掲載 (@you1chikamoto) 2019年6月30日
日本語では「今日は雨だ」という事実も単なる言明ではなく発話者の性別や状況や相手との関係、規範意識を反映した表現となる事が国語学でよく指摘される。
つまり、状況や関係が把握できなくては言うべき言葉がわからないわけだ。
暴力への日本人の反応について考えたのはこのエピソードを読んだせいだ。明治24年に大津事件というものが起きた。ロシアの皇太子ニコライ2世が来日して滋賀の大津を通過中、警護の巡査の一人が抜刀して斬りつけたのだ。(以下はニコライ2世の日記から)
「だれもこの男を阻止しようとしないので、→ →私は出血している傷口を手で押さえながら一目散に逃げ出した(…)すべての人が茫然自失していた。(…)私とあの狂信者だけが街頭に取り残され、群衆の誰一人として私を助けるために駆けつけ、巡査を阻止しなかったのか理解できなかった。」
事態へのこの感想を皇太子の尊大さだと思うことはできない。周囲の誰も助けてくれなかったという感想は、最近でも、電車で痴漢被害にあった外国人女性が語っていた。
だけど、僕自身も身体が動かなくなる感じがわかる。でもいったいそれは何故なのか?それは日本人に独特の態度なのだと多くの外国人が報告している。たぶんそうなのだろうが、その理由は何なのか?
ボストンマラソンのテロの時に、人々が懸命に怪我人の手当てをして運んでいる動画をフェイクだと言う言説が、日本のネットでは結構語られた。あんなに冷静に対応ができるわけない、と。だけどNYでガス爆発事故が起きた時にも、その動画の中には即座に「Let’s go help, men!」と叫ぶ人が映っていた。
暴力は、意図的であれ事故であれ規範的日常を切り裂くものとしてある。そういう時に日本語は言葉を失ってしまうのではないか? そして《言葉は出ないが身体だけは動く》などということはない。言葉を失えば身体も動かない。日本人は規範の逸脱に反応するメカニズムを持っていないのではないだろうか?
堂々とのうのうと公然と規範を逸脱して見せた者は、テロリストでも痴漢でも政治家でも、その時点でも事後的にも抑制されない。憎まれっ子世に憚る、という事になる。彼らは暴力で恐れさせて黙らせるのではない。本質的に、暴力が言葉を奪う事ができる日本語自体の仕組みを彼らは利用しているわけだ。
言葉が身体を規定している度合いというのは、おそらく言語に関連する領域からのアプローチで〈リアル〉に見えてきている部分がすでにあるのだろうと思う。それは、文化の表層、眼に見える現象の水準から迫ってゆくことしかできない側からのアプローチとはまた違う〈リアル〉なのかも知れないが、それでも何らかの通底するものはあるらしい。