
Twitter的なSNSの有難いところのひとつは、他人がどれくらいこちらの言うこと書いたことを、こちらの勝手な意図や思惑と見事にズレたところでどんどん理解していってくれているものか、をリアルタイムに日々思い知ることができるようになったこと。
それはとりあえず(゚Д゚)ハァ?……(つд⊂)ゴシゴシな体験の連続ではあるのだけれども、でも、と同時にそれらを「そういうもの」と前向きにあきらめることができるようになれば、あ、そうかそういう読み方聞き方というのもあるんだ、という自省反省を割と素直にできるようになるし、そこから本来の意味での「多様性」に寛容になれる、その大事な契機になる。
で、関門はひとつ、その「前向きにあきらめる」ということかと。別の言い方をすれば、自分の中の「正しい」(と思うことやもの)をひとまず棚に上げる、上げてそれからそういう「正しい」を抱えるに至った自分自身にもついでにフタをする、そうやってその相手の読み方聞き方を自分のそれと等価に見る。
それら異なる見方聞き方に納得ゆかない自分があるのは別にいい、それとは別に、あ、その自分が提示したつもりの「正しい」と思ったものやこと、は世間一般その他おおぜいのとりとめない「関係」と「場」に投げ出したら、こういうあさってな読みやワヤや聞き方も平然とされるようなものなんだ、と。
それを素朴に素直に、まず「感心する」こと――ここも違う言い方をするば「呑み込む」「味わう」、そしてできれば「楽しむ」「おもしろがる」まで行けるようならひとまずいい感じの道行きのとば口にはとっついたことになるようにおも。
で、そこから先もまたいろいろ難儀が待っているんだけれども、そのように「おもしろがる」「楽しむ」ができるようになると、それもまたそのまま流して「そういうもの」にしてしまう生身のニンゲンの業というか横着な性みたいなところがあるらしくて、な。
悪い意味貧しい方向での「冷笑」というのもそのへんから胚胎するらし。つまり、前向きにあきらめた自分とそういう自分に宿ってはいたはずの「正しさ」なり何なりがそのまま「なかったこと」に勝手になってしまうこと。それはそれで何かひとつの立場的なものを仮構できるし、ラクだし楽しめたりもするわけで。
その地点から「さらにもう一度」、棚に上げて前向きにあきらめた(つもり)の自分というやつを、棚からおろして手もとに引き寄せてみる。そうすると、棚に上げる前にその自分にべったり貼り付いていたように思った「正しい」ものやことが、おそらく別の様相を呈しているはずなのだが。
「正しい」の核心、内実は変わっていないだろうけれども、でもその見え方、あらわれ方が以前とは別の印象になっていないだろうか。だったら、その別の印象の「正しさ」を棚からおろした自分と共に、あらためて言葉にして自分以外の「関係」や「場」に放り出してみる。
うまく言えんのだが、そういうやりとりの淡々と続けてゆく、その過程にかろうじて宿ること「も」ある、それがあるべき自分だったりしないんかな、と。
その過程に足がかりこさえる前に唯我独尊、自分とその「正しさ」に頑なに閉じて勝手に発狂、自爆し続けるような「議論」ばかりになっとる理由かも。