
友達がおった。めちゃくちゃ頭が切れて仕事もできて、ほんで見た目もさわやか青年で性格もええやつ。たしか福岡の薬院あたりの出身やったからその友達を(仮称)薬院君としとこか。
— 全宅ツイのグル (@emoyino) 2025年1月19日
友達がおった。めちゃくちゃ頭が切れて仕事もできて、ほんで見た目もさわやか青年で性格もええやつ。たしか福岡の薬院あたりの出身やったからその友達を(仮称)薬院君としとこか。
薬院君は財閥の名前のついたごっつ立派な会社で働くエリートサラリーマンやった。知り合ったきっかけは忘れたけど、地方出身の極細実家から東京でてきて頑張ってる薬院君とわしは歳も近くて、ウマがあってすぐに友達になった。
薬院君は酒飲むたびに、ある分野のビジネスを絶対に立ち上げるんや!言うて叫んでてんけど、ある日、ホンマにその立派な会社を辞めて独立しよった。薬院君がそのとき付き合っとった別嬪さんの彼女はわしとも知り合いやったから、別嬪さんの彼女に「あんたの彼氏は男前やな。誰もが羨む会社を辞めて、勝負に出た。これはなかなかだれにでも出来ることやない。あんたは、ええ彼氏をえらんだんや。」と言うたった。ほんだら彼女は照れながら今度、薬院君と一緒に住むことになったから新居に来てくれというてきた。
お祝いのシャンパンを持って訪れた彼らの新居は埼玉の何や知らんの駅にあって、こっちが恥ずかしくなるくらい古くて狭かった。照れながら薬院君は「会社立ち上げたばかりやし、家に贅沢はできんへんねん。家賃7万やwww」って笑って、薬院君と別嬪の彼女とわしは乾杯をした。
別嬪の彼女の実家は北陸の方の名士の家で、ゴン太い実家やったから、わしはよくできた彼女さんや。貧しいかもしれんけど信じた男と一緒に生きていく覚悟を決めた男前の彼女さんやと思った。
そしてたぶん9年ぐらいが過ぎた頃やつった。
ある日、薬院君はわしの事務所に来て、●百万円を貸してくれと言った。
どうしてもビジネスが軌道に乗らず、資金繰りが厳しいと。
わしは薬院君のビジネスは"成功すれば"世の中の役に立つ素晴らしいものやと思っとったけど、薬院君にこういうた。
9年続けて●百万円の資金繰りがつかんビジネスはビジネスとは言わんのや。悪いことは言わん、いっぺんサラリーマンに戻って態勢を立て直せ。いや、そもそもサラリーマンやりながらでもお前のビジネスはできるんとちがうんか?
その日、薬院君とわしの関係は終わった。
わしの別の友人の嫁はんと、別嬪で男前で実家ごん太の薬院君の嫁はん(あの新居に引っ越してすぐに彼らは結婚していたし、子供も出来た)は今でも仲が良くて、その友人の嫁はんから聞いた薬院君の嫁はんの9年間も最悪やった。
実家ごん太薬院嫁はんの友人たちも実家ごん太なので、同じく結婚した友人たちのSNSを見るたびに薬院嫁はんは思うようになった。
なんで私だけお正月に海外旅行へいけないのか。なんで私だけこんな狭い家にすんでいるのか。なんで私だけCartierの時計をもっていないのか。なんで私の子供だけ習い事をしていないのか。なんで私だけパートではたらいているのか。なんで私だけインスタに友人が載せた25万円のブラウスを着れないのか…
そんな嫁はんに、あの●百万円を実家、親戚から調達した直後の薬院君はこう言った。
「お前の実家は俺の会社がこんな苦しいときに何もしてくれなかった。」
結局離婚した薬院嫁はんは、ごん太実家の援助のもと、港区のみんな知ってるタワーマンションの家賃90万円の部屋で子供と二人で暮らしている。
登場人物に悪人は最初から最後まで1人もおらんけど後味の悪いこの話で一つ言えることは、ビジネスはやるなら勝つしかないということや。忘れてしまいがちやけど、わしらは今でもいろんなもんをチップにして資本主義世界のルーレットを回しとる。忘れたらあかんで。やるなら勝つしか道はないんや。
世相の断片、日常のスナップショット、いずれそのようなささやかな端切れのようなものを、そうといくらか気をつけてさえいれば、web環境はいつも静かに目の前に流れ寄せてくれるもの。別にTwitter、いやXか、それだけのことでもなく、かつての2ちゃんねるの頃から「そういうもの」だったのだからして。
最近は「起業」とか普通に使われるようになって、良くも悪くも野望に満ちた、あるいはそうでなくてもいくらか他人と違う自分に自信と希望を持っているようなアンビシャスな若い衆に向けて、無責任に煽ってまわる商売も繁昌しているようなご時世。学校を出て就職して、そこらの何でもない会社勤めの下働きであっても、それを何年か続けてゆくのはいつかできれば「起業」したい、自分の「会社」をこさえて「立ち上げて」、それをひとかどのものに育てていって、どこにでもいるような使われ人、勤め人で給料取りのしがない人生でない、トクベツの自分、スペシャルな存在として自他共に認めてもらえる存在になってやりたい――まあ、言葉にしてしまえばそういう陳腐なものにしかならないものであっても、昔ならそれこそ立身出世、青雲の志を抱いて世の中に雄飛してやるという青年客気、それこそ「元気があってよろしい」的に概ね前向きに世のおとなたちから督励奨励叱咤激励されるようなものだったはずだ。
難しい話じゃない、要は「自立」「独立」して「商売」をしてゆくこと、つまり「自営」業者としてやってゆくことをめざす、そういうことなのだろう。しかし、いまどきの「起業」というやつは、そんな昔ながらの、いつの時代も必ずあったようなそういう「商売」の手ざわり、一本独鈷で世間に踏み出そうと志していざ動きだそうとした時に必ず遭遇する〈リアル〉の手ざわりについて、どこかはぐらかして見えないものにしてしまうようではある。
生まれた家がそもそも「商売」の家だったかどうか、というのも結構決定的だったりする。どんなものであれ、自分の家が「自営」で「商売」していたのなら、ものごころついてこのかた見聞きし呼吸するそういう「商売」家の空気というのは、意識せずとも身についているものだ。たとえ町家の路面店、何らかの小商いをやっていたり、あるいは食べ物屋でもいい、日々あたりまえに客の出入りがあり、見知らぬ相手と如才なくやりとりをする親や兄弟、あるいは店のおとなたちの姿を日常の風景として見て育っているのなら、「商売」を介してそのように世間とつきあうことにことさら構えて考えることもなくてすむだろう。また、ゼニカネ勘定にしても、小銭であっても現金のやりとりをあたりまえにするような光景を見慣れて育つと、ゼニカネのもたらす小さな個別具体の〈リアル〉もまた、あたりまえに「そういうもの」として身に刷り込まれてくるはずだろう。
高度成長期ネイティヴ第一世代の、しかも一部上場企業のサラリーマン家庭の子弟だったことは、そういう「商売」家の〈リアル〉を育ってゆく過程で肌身にしみこませる機会が絶望的なまでに乏しかった、ということは、ある種のうしろめたさや引け目のような感覚と共に、身の裡にわだかまっている。ましてひとりっ子、さらに加えていわゆる親類縁者の類も、父方は養子でその養家は戦争で実質壊滅して離散、かろうじて母方だけがそういう「親戚」づきあいの原体験を持たせてくれるものではあったものの、転勤族の典型だった自分の家のみならず、それら母方の親戚がたもものの見事にそういうホワイトカラー系で、転勤だの何だのでそれぞれ各地を転々、まずは一所不住の暮らしぶりだったから、「実家」なり「故郷」なりといった、何らか地元的な土地柄、風土などと紐付いた場所というのも、正直自分ごととして〈リアル〉なものになりようがなかった。
生まれたのは東京都下でも、幼稚園の時に転勤で神戸へ、数年たたずに西宮へと移り住み、そのまま高校を出るまでそこに暮らして大きくなったことになるけれども、期間としてはわずか10年ほど。それでも、小学校から中学、高校までのいわば人としてかたちになってゆくその最初の大事な段階の10代の大方をそこで生きていたことは、個人的な体験としてもそれなりに大きかったのだと、いま振り返ってみても思わざるを得ない。阪神間の風景は、そういう意味では何ほどか「故郷」という語彙に連なり得るかもしれない感懐やノスタルジーめいた気分を、だから今でも身の裡に喚び起してはくれる。傍目からはおそらく全く察されることもないようなものではあるけれども。
閑話休題。「商売」でありビジネスの〈リアル〉の内面化、身体化といったお題だった。「これ(ゼニ)か、これ(オンナ)か、これ(酒)か、それともまた違うもんか?」というのが決まり文句だった、という話は、あれは誰から耳にしていたのか、オヤジ自身の言葉ではなかったと思うのだが、いずれにせよそういう当時の大阪、高度成長期の真っ只中、大阪万博景気もあって野放図にざわめき盛り上がっていただろう関西圏の土建屋、インフラ整備の大手も含めた建築関係を相手取って商売していた東京に本社を構える全国区の一部上場企業の「商売」の〈リアル〉の片鱗くらいは、そういう断片の記憶からかすかに感じてはいた。何をやったのか知らないが、「ややこし」方面だったか公取だったかが来たんで部下の機転で会社の裏口から逃がしてもらったとか、ゴルフの接待に週に何回つきあうことになったのかを表わす「シュウゾウさん(週に三回)、シュウジさん(週に二回)」などといったもの言いも、何となく耳の底の方に残ってはいる。