個別具体の細部と「おりる」の関係

 個別で具体でささやかで、個人の生身のたたずまいが織り込まれているような挿話や細部、どうでもよさげなはなし、が、たとえ断片であっても大好物。これは性癖みたいなものだと思うとるけれども、ただ、一見似たような性癖に見えても、宿っとる生身のありようが別物だとせっかくの素材も艶消しになる。

 「読む」は、その主体のありように大きく左右される営みらしく。

 何かと競う、勝ち負けが最優先されている、マウントありきで精力使う……いずれそういう生身のありようが抜き難くなっている主体は、同じ素材でもこちとらなどとは「読み」も、その後のさばき方も大きく違ってくるものらしく。

 このへん、うまく言語化できないでいるんだが、なんだろ、千鳥足の道行きでたまたま出喰わしたそういう素材、というのでなく、あらかじめ何か拾い尽くす、集め尽くすというのがもう「正しさ」として実装されとらすような人がたが見せるそういう「細部」への執着は見苦しく味気なく、何より疎ましい。

 あらかじめ何か「到達点」というか「あるべき全体」みたいなものが「正解」として杓子定規に設定されているような印象で、その「全体」を人より早く効率的にしらみつぶしに「網羅」してゆくことに全力をあげる、そんな感じ。そういう了見や態度からは「読む」もまた窮屈で不自由で痩せたものにしか。

 そういう人がたの「細部」「とのつきあい方は、どこかで半ば必然のように「ポエム」っぽい方向にアウトプットが流れるのも、そういう窮屈のなせるわざみたいなところがあるように感じている。

 「おりる」と初手から縁のない、そういう人がたの不自由や窮屈の類。その善し悪しとは別にして。

 「全体」を「網羅」しているというものさしからして、遺漏がない、群を抜く「量」を自分のものにしている、そういうことが価値であり、そしてそれらの作業の果てのアウトプットの「質」を「正しさ」として規定する、と、おそらく無意識無自覚含めて思い込んでいるような、そんな主体のありよう。

 ノートやメモをとりながら「読む」という作法も、もしかしたら昨今、廃れ始めとるんだろうか。

 自分は付箋を2~3mm程度幅に、それこそあられの中にまぎれとる切昆布みたいに切り刻んだものを貼りまくるのを併用しとって、それは自分自身に対する備忘、その時の「読み」の感覚をもう一度引き出して確認するためのよすがみたいなものなんだが。

 なんでこの個所、この部分に執着したり、気になったりしてたんだろう、という自問自答をしてゆくために、自分的には役に立つやり方のひとつではあって、もちろんノートやメモもとるように努めとるけど、正直近年はTwitterなどもそういう自分の為の備忘的な意味あいで使うようになっとるところはある。

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