高齢者がみんな「検索」をしたいのだろうか。ハワイ旅行について調べたいだろうか。生活のなかで役立つ道具にするには、まず必要なニーズを聞いて、それに役立つアプリを設定して、それに慣れるということをひとつずつやらないとむりではないだろうか。
— 大貫剛🇺🇦🇯🇵З Україною (@ohnuki_tsuyoshi) 2019年10月7日
携帯ショップで自分の順番を待っている間、隣でやってる高齢者向けスマホ教室の声が聞こえてきたのだが、これは覚えられないなと思った…相手がどんなことに興味を持ってるかを聞くのではなく、数人の高齢者を前に早口で「こんなことができますよ」と話していく。聞いてる方はポカーンとすると思う。
高齢者がみんな「検索」をしたいのだろうか。ハワイ旅行について調べたいだろうか。生活のなかで役立つ道具にするには、まず必要なニーズを聞いて、それに役立つアプリを設定して、それに慣れるということをひとつずつやらないとむりではないだろうか。
案の定、一通り終わって質問タイムになったら「電話に出るにはどうしたらいいか」という質問が出てる。
スマホが一気に、若い世代だけでなく年寄り高齢者に対しても広く普及するようになったのは、概ね2010年あたりからこっちのことだったと思う。世代を越えた普及具合という意味では、10代からその下、小学生あたりまでも持つようになっていったことは、メディアでも取り上げられていたけれども、その逆のウイング、それまでせいぜいガラケーをまさに携帯電話として使うことぐらいで、あるいはそれすらおぼつかないままだったような50代60代から上にも普及していったことで、ガラケーを使う経験もないままいきなりスマホを持つ羽目になる年寄りもまた、たくさん生まれてきた。
そもそも、スマホというのは、それまでのガラケー携帯電話にさらにインターネット接続させることで、個人用のモバイルコンピューターの機能までも集約して持たせてしまったものという理解だった。間違っているかどうかは知らん。それまでとりあえずガラケーは持ち歩いて使っていた身にとって、出て来た当初のスマホとはそういうもの、だったのだからして。
確か、最初はスマートウォッチの方がイメージとして強かったような記憶もある。例によってこのへんはあいまいだけれども、腕時計のように身につけることのできるコンピューターというのはなるほど、かつてのSF映画などでも似たような道具は描かれていたし、わかりやすかったのだろう。ほれ、スーパージェッターが腕につけてて、流星号を呼ぶような通信機器的なものとしてのあれ、とか。
カマボコ板みたいな形のスマートフォン、というのは、それまであったiPodにさらに携帯電話機能を乗っけて、さらにネット接続もできて、という説明になってて、それはそれでわかるんだけれども、でもそれ、何がどう便利になってすごいのか、正直いまひとつピンとこなかったのも確かだった。冷蔵庫や洗濯機など身の回りの家電製品が相互に接続できるようになって、といった未来予想図――当時はもう少しずつ実現してはいたと思うが、その青写真に対する違和感、うさんくささと同じように、そのiPod状のカマボコ板に携帯電話が合体したようなシロモノは、素直に好奇心をかきたててくれるものではなかった、個人的には。そういう意味では、タブレットの類、iPadの方がまだ、モバイルコンピューターという理解にすんなりなじむもので、そっちの方にむしろ興味関心は向いたように思う。
2010年頃というと、こちとら50代はじめ、縁あって再び大学の教員に舞い戻っての世渡りを始めていたので、学生若い衆らの中に出回り始めたスマホを持っているのが増えて、仲間同士であれこれ使い回し方を学びながら日々の道具にしているのを目の前で眺めていた。携帯電話以上の「便利」を思い知らされたのは、まず検索と共にマップの機能だった。ゼミのコンパを設定するのに、幹事役の学生があれは食べログだったか、予算と日時とを入力して適当な店を探し出して、それをマップから位置情報などをサクッと引っ張って、メイル介してみんなに送ってよこした、その一連の手さばきのスムースさに、(゚Д゚)ハァ? ……(つд⊂)ゴシゴシ という間抜けヅラになったものだった。
いま、この時点でスマホを持たされようとしている年寄り高齢者たちにとっては、そんな検索機能の「便利」というのは、確かに日常の間尺で切実に求められるものかどうか、というと、なるほどあやしいだろうとは思う。朝起きてテレビのスイッチを入れて、配達されている新聞の朝刊を開き、といった「そういうもの」化して久しい情報摂取のルーティンをまさに生活習慣として刷り込まれている人たちにとっては、さらにそれ以上の情報摂取をことさらに必要とする「実利」は、普通ならまず感じられないし、何より億劫でわけのわからないものとしてしか認識されないだろう。
それでも、ドコモ以下の携帯キャリアの側は情け容赦なく、未開拓の市場として、言い換えれば絶好のカモとして、彼ら彼女ら高齢者にスマホを持たせようと、あの手この手でからんでくる。ガラケー普及の過程では、写メ(死語か)が撮れますよ、お子さんやお孫さんに簡単に送ったりもらったりできますよ、といった「カメラ」機能をわかりやすいフックとして利用していた記憶がある。それと同様、昨今のスマホだと「テレビ電話」的な使い方も、同様にフックとなっているらしいが、しかしそもそもの話、どのような形にしろパソコンを日常生活の中で「使う」道具として取り入れていない人たちにスマホをいきなり持たせることの無理無体というのは、さて、どれくらい考慮されているのだろう。
もちろん、スマホくらい使いこなせないと「時代に置いてゆかれますよ」的な煽りも、セールストークの合間に適宜随所にさしはさまれている様子。何よりも、この高齢者世代は一般的にカネを持ってたりするから、携帯キャリアベースのぼったくり(としか思えん、昔も今も)の料金体系にはめこまんで毎月お布施をふんだくるには絶好のカモ。かくて、老夫婦併せて2台のスマホ契約、あれやこれやのオプションてんこもりで、どう考えてもオーバースペックな最新機種をこってり押しつけられては、たまに顔を見に来た息子や娘に(゚Д゚)ハァ?…… (つд⊂)ゴシゴシされてたりするまでがお約束になってたり。
思えば、電話の「便利」、というのはわかりやすかった。ラジオやテレビも、まあ、そうだったろう。冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどは言わずもがな、何をする/させるための道具か、具体的に「わかる」ことについてのハードルは低かった。それこそ、かつての『暮しの手帖』の「商品テスト」のように、各メーカー各種製品を横並びにして「実験」してその「実用性」を比べてみせることができる程度には、日常に新たに導入する道具として、それらがもたらしてくれるだろう「便利」は概ね普通の人たちにとってもわかりやすかったし、また、それは確かにある程度「豊かな暮らし」「ステキな明日」のイメージのワンピースとしてあてはめてゆけるものだった。
いまの年寄り高齢者にとって、スマホはそのような「豊かな暮らし」のイメージの一部として、どれくらいすんなり理解されてゆけるものになっているのだろうか。