「批評」の行末・断片

 いわゆる音楽評論、殊にある時期以降の商品音楽についてのそれは、文学や映画、マンガやアニメなど、いずれ大衆社会化が果てしなく続いているかのようなここ数十年の過程で、市場に手を替え品を替え登場しては消えてゆく「作品」ならざる「コンテンツ」を相手取っての「批評」全般が直面している困難を克服できていません。

 いや、そもそも、「批評」という行為自体がこの先、このような情報環境において、どのように成り立ち得るのか。単にある文字/活字表現のジャンルの所帯稼ぎの行末の心配する目先の対応から踏み出せぬままの議論はあれこれされていても、ことばと眼前の現実、〈いま・ここ〉をことばと意味によって定着してゆく、今となっては迂遠としか言いようのないこの「読み書き」ベースの手わざそのものの射程距離と有効性について、根こそぎ考えなおそうとする腹のくくり方を誰も自分ごとにできないままである以上、まさに糠に釘。「コスパ」や「タイパ」と称し、近道や早上がりを自明の「正義」としてゆく同時代感覚に足をとられたところから生産される文字列だけが日々、眼前の〈いま・ここ〉と乖離したところでなめらかに流れてゆきます。

 一方で、そのような商品音楽としての音づくりの現場の機微に即した、デジタル環境が自明に整備されてゆく過程で飛躍的に変化し続けているらしい最新のテクノロジーなども視野に入れた技術論や、あるいはまた逆の方向から、折り目正しい音楽理論に裏打ちされた分析や考察の類などが、これまでの文字/活字ベースの人文系の「批評」文法しか持ち得なかったこれまでのそれら商品音楽に対する批評のありように対する、ある種のブレイクスルーとして受け取られ、展開されているかのような現状は、たとえばマンガがある時期、その生産点における技術論という意味も含めた固有の読み方/読まれ方に光を当てた言語化、可視化を「発見」していった先に、一気に「学会」組織まで整えていったいきさつなどと、良くも悪くもパラレルに見えます。

 従来の文字/活字ベースの情報環境で成り立ってきた文法での「批評」「評論」から、新たな視野を技術によって裏打ちされた「学術研究」へ。なるほど、それが時代の流れであり、特に若い世代の眼からみれば、「進歩」であるのかもしれません。

 かつて、眼前の〈いま・ここ〉を言語化してゆかねばならないと考え始めた際に、「大衆社会」が初めて共通の問いとなり、そこから「消費」や「余暇」(「レジャー」と訳されてしまったことの功罪も含めて、ですが)などの語彙が日本語を母語とする環境における人文・社会系の視野に組み込まれていったように、時代がひとめぐりした果ての現在、音楽に限らず、いずれ大衆的拡がりを伴う市場での消費を目がけた「コンテンツ」商品群(「サブカル」と、これまた本来の意味とは別の内実で、昨今はひとくくりにもされているようですが)もまた、整然と制度化され、それゆえ一定の居留地に囲い込まれた「学術研究」的なたてつけの裡にだけ、回収される時期になっているようです。