あずまん「批判的」の平板さについて・メモ


 「本当の意味で批判的」ってのがなんでそんなに「正義」っぽくなっとるんか、そこからまず考えようとせん/でけんからあかんのと違うん?しらんけど。


 その「批判的」ってのが、そこらに転がっとる「反権力」だの「アベガー」だの何だのと、ざっくりなだらかに同じハコかもしれん、という懐疑wは持てんのん?


 「批判的」であろうとすること自体がいけないんでなく、それがあらかじめもう「正義」っぽくなっとって、かつ、だから「決められた目的」「正解」でしかなくなっとるあたりのキモチ悪さと、それをキモチ悪いと思わん/思えんようになっとるあたりが、な……


 いまどき「リベラル」界隈のエコチェン蠱毒化が眼前の現実と乖離しまくっとって、政治的にも理念的にも機能しとらん、という程度のことをさもさも新たな発見のように言い募るあたりの(゚Д゚)ハァ?……(つд⊂)ゴシゴシ 級の平板さ陳腐さも、そのへんと無関係やないとおも。

 自分は中年男性ですがインテリや金持ちが嫌いになったのはSNSの影響が大きいと思います。むかしは立派な説を仰る学者はなんだかんだ言って偉い人なんだろうと漠然と思ってましたが、SNSのせいで学者/インテリのいけすかない生態が可視化されたからです。「インテリは敵ィ!」って感じになりました。
٩(•ᴗ• ٩)

 ミュージシャンなどもSNSで余計な発言をしたばっかりに聴衆から嫌われて「作品は良いけど、たかが電気とか言っちゃう人の音楽は聴きたくないなぁ」みたいな、作品と作家の人間性が混濁してしまって人気や権威が失墜するという現象が多く見られるようになりましたよね。

 批評でいいこと言って注目されたいが為に音楽聴いたり映画観たりして、あーだこーだと偉そうなことをSNSに投稿していいねを稼ぎマウントを取る、というムーヴが目につく様な気もしてしまうんですよね。そもそも他人の褌で相撲をとるような批評家の態度ってのは昔から鼻につく嫌な感じがありましたね。

 
 ムツカシいことはようわからんけれども、その「本当の意味で批判的」であること、ってのが、そういう界隈にとっては、何よりも大事な徳目になっとるらしいことはわかる。

 で、そういうもの言いって、かつては「ラディカル」とか、そういうのだったんだろうな、と。「根源的」とか「本質的」とかそういう意味あいだったと思うんだが、そもそもは。でもそれが、「ちゃんとものを考えようとしている」「トンガってる」的な意味あいで、まあ、ぶっちゃけ「イケてる」「カッケー」なシルシとして、一時期ものすごく使い回されていたりしてたわけで、な。

 「批判」や「批評」ってのも、そういう界隈にとってはそれらの末裔みたいなもんらしくて、だから「批評家」「評論家」ってのが「思想家」などと同じハコでリボンかけられてたりするみたいなんだわな。