「役所みたいな怖いとこ、酒でも飲まなよう行かん」
— むしまる(元祖) (@fudesakisanzun) 2020年5月21日
ぱっと見ヤカラ丸出しのいかついおじさんが、役所が怖い、書類記入が怖い、丁寧に応対されても難しい言葉そのものが怖い、という感覚を持ってるというのは、かなりショックだった。
仕方ないからついて行ったけどね。飲んできたらしばくと念押して。
「役所みたいな怖いとこ、酒でも飲まなよう行かん」
ぱっと見ヤカラ丸出しのいかついおじさんが、役所が怖い、書類記入が怖い、丁寧に応対されても難しい言葉そのものが怖い、という感覚を持ってるというのは、かなりショックだった。
仕方ないからついて行ったけどね。飲んできたらしばくと念押して。
件のリツイート こういう違和感、忌避感って今でも確実にあるし、でも案外昨今だと見過ごされて取り残されている可能性が高いように思う。「役所」(「お」を付ける場合もその感覚含めて)というのはそういう「難しいことば」を駆使してくる場所であり、そしてそれは自分が普段生きている環境ではまず使われることのないことばで、それが果してどのような現実を引き出してくるものか、想定ができないからこそ「おっかない」という感覚。異なる語彙、異なる文法、異なる話法で話しかけてきて、またそのようなことばで紙に記されたあれこれに、そのようなことばに従って何やら書き込むことさえ要求される。そしてその結果は何やら自分の日々の暮らしにそれなりにのっぴきならない枷や縛りをかけてきたりすることが多いらしい――違和感や忌避感をまずほどいてみると、およそそんな感じなのだと思う。
ある意味書き言葉であり文字であり、そのような定型的で固定的な「動かしがたいあり方」としてそこにある一群のことばとそれに最適化された話法や文法。さらにそれらを駆使する生身の存在としての人間。確かにそれは「そういうもの」としてひとまとまりにそこにあるのだけれども、でも、それら全部ひっくるめてのたたずまいが自分にとってはどうしようもない違和感、忌避感を生身の裡からひしひしと感じざるを得ないようなものになっている、と。
間違いなくそれは「こわいとこ」である。その「こわい」の中身をいちいち説明しないとピンとこない、そういう人がたにとっては決して本当の意味で「こわい」にならないという意味でも。