ご当地NHKで厚真のハスカップを地域おこしの起爆剤に、的番組やっとるが、震災関連の復興資金使ったんだろう感ありありなお手盛りのシンポジウム(なんで山本リンダとか呼ぶ?)とか視察旅行(高知の馬路村まで)とかやっとってもうあらゆる意味で、ご当地そういうとこやで&それあかんやろ事案(´ω`)
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) February 17, 2019
馬路村はあれ「農業」やなく「林業/山仕事」やっとったから「加工/販売」は骨がらみ歴史/民俗がらみの地域だってあたりはまるで考慮なし。「モノではなくその地域ならではのストーリーを売る」的コンサル話法にアタマやられた地元のおっちゃんの能書きそのまま鵜呑みにして帰ったりもう、な。
でも、その馬路村の地元のおっちゃん、能書きはコンサル話法汎用版だけど、ツラ構えやら身のこなしやらはもう全然違うあたりがなかなか味わい深かったりしたんだが、そういうところもピンとこんのやろなあ、そもそも取材し撮影しとるNHKの中の人がたの側からして。
厚真や鵡川のハスカップ、弊社若い衆と少し実地に少しさわってみたこともあるが、ハスカップのおにぎりとか寿司とか、そりゃキモチはわかるがいきなり出されても(゚Д゚)ハァ?……にしかならんわな。地元じゃもともとおにぎりの具にしとったとも聞いたけど、でもそれ、戦時中の窮余の策だったらしいし、とか、いろいろもにょらざるを得ないことが。
ご当地の「農業」「農家」の〈リアル〉って、それこそ『北の国から』みたいな「北の厳しい自然と戦いながら生きるために懸命にこういう農業(だけでもなく林業酪農その他何でも)やってきました」的な、かつての「開拓」伝説にも連なるような系統か、あるいは、これは近年割と増えてきた印象もある道東的なとんでもない大規模農地でジャガイモだのトウキビだのタマネギだのをこさえる「雄大な自然を生かしたちょっと本邦基準と違うシャレオツ農業」系統か、「おはなし」の文法話法としては概ねこのどっちかになってきている気がするんだが、ただ、現実のご当地農業の多数派であるはずの〈リアル〉ってのは、それらの「おはなし」の間尺からは割とあっさり洩れ落ちてしまっているようで。
たとえば、これは一応札幌近郊、道東や道北などとはまた少し環境は異なるけれども、特にとりたてて特徴もない「農業」地域で、それでも生まれてこのかたずっと地元から出たこともない人がたがほとんどで構成されているようなコミュニティ(「ムラ」という慣用的もの言いがどうにもしっくりこないのもこういうご当地「農業」地域の特徴) の話を聞いていると、これまで少しは見聞きし、現地の手ざわりなども知ってきていたはずの本邦そういう「農業」「農家」ベースの地域の〈リアル〉が、「わかる」ための準拠枠として役に立たないことが多すぎるわけで、ああ、これはもう本当に津軽海峡以南、少なくとも道南より先の「にっぽん」とは別の現実をずっと生きてきている場所なんだ、といまさらながらに思い知らされざるを得なかったりする。
たとえば、そうだな、まずもって寺と神社がない。いや、あるんだけれども、それがその地域なりコミュニティの〈リアル〉の重心になっていない。ものすごくフラットで淡泊で、ただ「そこにある」というだけのこと、といった印象。もちろん何かあれば集会の場所になるし、子どもたちが多かった頃は遊び場にもなり、そういう使い方は普通にされているのだけれども、でも、海峡以南の標準「にっぽん」の「ムラ」にまつわっているような寺や神社に関する感覚や手ざわりみたいなものは、かなりあっけらかんと「ない」。
近所づきあいにしても、「ムラ」によくある共同作業の縛りの類があっても、「因習」や「伝統」といったもの言いに必ずまつわってくるような鬱陶しさ、息苦しさの類が、どうも薄い。それこそご当地の決め技「なんもだよ」でたいていのことは片づけられていて、互いに助け合ったりすることにことさらに特別な意味をつけてみたり、それを起点にしちめんどくさいやりとりの定型などが引きずり出されることも、見ている限りあまりなさそうなのだ。
ご当地の人がたの感情の網の目の粗さといったことはこれまでも触れてきたけれども、それと地続きなのかどうか、それこそ柳田の記した「北國の春」などのささやかな紀行文めいたものの端々にも、気をつけて読み取ればそのような「北」の心持ちは散りばめられてはいる。
たとえば、個体がムダに強い、頑健で強靭でタフでどうしようもない、というのはあるかもしれない。しかも、男女不問で。単にフィジカルな強さというだけでなく、それに見合ったココロのタフさがあっけらかんと附随している。こまやかなココロの動きや感情の機微といったものは考慮されるほどには見えないのだが、でもだからその分、あの「なんもだよ」の一撃の効き具合が格別なものになる。感情の網の目が粗い、という言い方を割とするのだけれども、粗いがゆえに互いにそれ以上のココロの動きに気づくことがないまま、日々の流れの中にとりあえず大方のことは溶け込まされてゆく、というような。
「歴史」が稀薄で「伝統」の縛りが弱い「地域」というのが、これほどまでにあっけらかんとしているものか、というのは、いまでもまだ日々の中で気づかされることは少なくない。人と人、ニンゲンとニンゲンとが共にある地域に暮らしてゆく上で、しかも基本的に同じ「農業」を営みながら生きる日々に、基本的にそう違いもないのだとは思うけれども、と同時にまた、そこに否応なくはらまれてしまっている「違い」もわれらニンゲンの営みに必然的に伴ってくるものなのだろう、と。
コンサル話法に代表されるような、いまどきのことば遣いやもの言いが本質的にわれら同胞の現実認識に鬆を入れてゆき、言わば〈リアル〉に対する骨粗鬆症のごとき症状を呈させるようになっていること、同じ「地域おこし」的な場においてもそれぞれの地域の「違い」に応じてそのあらわれ方の濃淡、質も含めた格差の類までも、すでにうっかりはらんでいるらしい。