コンパクトシティ是非・メモ

*1

 身も蓋もないことを言うと過疎地にバス通して介護タクシーチケットばら撒く方がコンパクトシティ化や大都市圏への強制移住よりもリソースとしてははるかに安くは上がる。コンパクトシティ化するための行政や福祉の人的リソース、コストが見合わない。なぜならこのコンパクトシティ化は民間に旨味がない。


 コンパクトシティ化する方がみんな集まって安く上がるというが、それ以前に動けるジジババはクルマ買って田植え機買ってコンバイン買ってトラクター買ってる。メンテする。車で30キロ先の量販店でお買い物。旅行にも行く。このカネは民間経済に回る。動けなくなった時に介護問題になる。要は公金の問題。


 コンパクトシティ化した場合、医療費介護費、補助金運用の公共交通機関の経費、公務員配置コストは安くなるが、その代わりに集約されたジジババが購入していたはずのクルマも農機具も需要は消える。最大の問題は介護と終末医療の公金支出額は減らない。民間経済の総需要は落ちる。


 国も自治体も馬鹿じゃないからコンパクトシティ化のメリットデメリットはこの30年ぐらい常に議論の対象になっているが、ワシらも論議に参加するのだが、むしろあと20年程度は今のレベルに近い運用で押さないとコストと経済効果的に無意味では、となってきてる。あとは農業と人が交通移動することの意味。


 コンパクトシティ化や過疎地域からの人の流出について究極の解決手段はどこでもドアの開発であるが、それは不可能。となると、密度と時間帯をカバーする低廉な公共交通機関による都市部との連絡が最も重要な論点になる。突き詰めると無人バスの早朝深夜運行と鉄道始発終発との連携、治安確保となる。


 中国などが独裁国家システムの利点で急速に実験を進めている、アメリカやオーストラリアなどでも。ワシも最近は会う人たちに言い続けているのだが、岡山県北の山奥からでも毎日、岡山大学に通える可能性を作らねばならない、と。道路事情改善で車で往復120キロ通勤は可能になった。


 低賃金カルテル、割と人類の本性に根ざした現象なので解消は難しいだろうな。アマゾンに焼かれるまで地方の書店が残存していた(残存できてしまっていた)問題に近い。


 低賃金カルテル、労働者を虐げたくて低賃金に据え置いているのではなく、地域全体の地元企業群が互いを守るためにやっている側面。どこかの業界がたまたま景気が良かったり、技術革新で儲かるようになったからと言って給与を引き上げると、地域の秩序が崩壊してしまう。かといって他地域との給与差が移住・移転や越境通勤のデメリットを上回るほどになると人材は流出するし、地域の消費は下落する。これどうしたらいいんだろうな。農村・漁村や鉱山町はみんなそうやって衰退してきた。


 経済における低賃金地域の衰退問題、鉄道・自動車の普及による通勤可能範囲の拡大とか、近代的住宅の普及による移住コストの低下などにより加速するので、戦争における機動力の要素に相当する。


 では火力は何に相当するのかというと、何なんだろうな。技術革新とかだと漠然としすぎるから。土地の生産力とか、産業により生み出される付加価値の大きさとかがこれに相当するのか。


 たとえば中京地区の自動車産業はその巨大さ故に、東京や大阪に負けないだけの人口を集積している。つまり高付加価値を生み出すのに必要な規模が大きければ産業地帯への集住が進む。反対に、PCの中やネットワーク上で殆どの工程が済み、尚かつ移動や通信のコストが下がる世界では分散が進む、ということになるのでは。

*1:コンパクトシティ」論は地方行政に関わるところで近年、しつこく繰り返し論じられてきているお題であることは見知っているけれども、それを個々の地域の個別具体に即したところで現実的な可能性の間尺で考えてゆこうとする足場は、少なくとも行政の当事者とその界隈の共有していることばやもの言いからは構築できないのではないか、という懸念を岡目八目的に漠然と抱いてきている。そのあたりの懸念を解消してゆける可能性というのも、おそらくそれらいわゆる当事者性に伴って必然的に附随してきているある種のことばやもの言いのありよう自体から「おりる」方向をはらむようなところからのこのようなつぶやきやメモ、備忘の類を水平的につなぎあわせてゆくことなどからしか見えてこないように思う。