「「考える習慣」と「読んだことがある本の内容を思い出す習慣」との区別もつかない」←これエントリの主題と無関係にさうなのだわさ(´・ω・)ノ 図書館なんかにも「正しい答えが書いてある文献」を見つけにきちゃふ / “兵器と戦争_2 |…” http://t.co/FoXmCjKLOz
— 書物蔵:古本フレンズ (@shomotsubugyo) June 28, 2015
図書館にゃ、妥当な答えを考える材料(materials)はあっても、正しい答えが書いてある本(Bible) なんか1冊もないよ。ってかそこにおいてはバイブルもマテリアルになってしまふ。それが近代図書館のコンセプトなのに、日本のみんなは正しさを求める。図書館に行けば「これまでのこと」を書いた本はある。けど、「これからのこと」を書いた本はない。そう見える本があったとしても予言書や黙示録のような「これまでにかかれた」本でしかない。
米英の図書館の優れたところは、図書館にある本の新しい読み方を開発したところなんだ。それを「参照」という。参照用コレクションを陳列した参照部屋(諭吉のいうズーフ部屋ね(o^ー')b)を開発し、参照司書を配置し、ユーザが参照しやすい環境を作った。
司書も、それまでの警備員でも出納手でも目録屋でも、立派な学者司書ですらなく、参照司書となり、参照サービスを主軸として図書館事業を発展させていくことで、社会的上昇を米国で果たした。米国で司書がレファ司書(reference librarian)として社会的威信を増した歴史は、わちきの業界内政治的興味でしかないとして、みんなに重要なのは、図書館を、「参照読み」(reference)できる場所にしたこと。
なんで過去の本しかない図書館に行って、現在ただいまや未来の自分に役立つかというと、この「参照読み」ができる、という点にある。過去の歴史も過去においては今でしかなく、過去の歴史記述も今の「部品」のあわさった結果のつながり。過去の本に埋もれている「部品としての今」を随時「参照する」ことで、現在ただいまの我々、これからの未来の参考になるんだわさ。
でもこの「部品」、じつは単体では役立たずで、文脈のなかにおかないと(=図書というまとまりの中におかないと)意味が解らないし、他の類似「部品」と比較したりして初めて評価もできるようになる。ネットは部品の宝庫だけれど、文脈に編成されない傾向があるから、意味の発見や比較がむずい。
文脈の中においたまま、「部品」を参照できる、それをコミュニティーに1個、作っちゃう。これが米人が19世紀から20世紀にかけて開発した新発明、図書館におけるreference room、reference collection、reference service、reference librarianだった。
これが日本でうまく定着してゆかなかったのは、日本語、とくに概念語や高級語の記述方式がムチャクチャ(かな・カナ・abc・漢語・近代漢語)だからだ思う。大学に余計に行き、さらに言葉についても考えるなどという余計なことをした人のうち、さらに1/3ぐらいしか、このムチャクチャな表記体系を使いこなせない。
図書館とかの目星つけて出かける以前におのれの抱え込んどる古書雑書の山から必要なものを掘り出すのでほぼリソースが割かれるワヤが近年、ほんまに続いとる身の上にはいろいろ身に沁みる。
「積ん読」というか、積んであるブツでもおよそどういう中身のものか、程度の概略把握するようなつまみ読み拾い読みはしてあるつもりではあるんだが、それでも予期せんようなお題のつながり方やら必要の発生でそれらを相互に紐つけて「探す」のが難儀かつ手間で……
活字/文字の、しかも「書籍」というカタチに一応なっとるものでもこれだから、画像映像音声その他のアーカイヴスなんてのはほんまにどうやって「利便性」を担保しとるんだろ。活字/文字ベースの作法とはまた別の検索なり相互紐つけなりのやり方が確立されてきとるんかも知れんが。
そのへんの最先端なり現状なりはもう、お若い衆世代にお任せするしかなく、こちとら絶滅品種の活字/文字ネイティヴの「読み」実装筐体としては、自分の始末できそうな範囲とやり方とで活字/文字以外との相互紐つけを必要に応じて試みる、程度がいっぱいいっぱいだとおも。
実際、図書館等に「ない」本ってほんまに多くて、な……いや、おのれの手もとにあるからいいようなもんだが、でもそれっていまどきの情報環境だと世に広く知られてない&読まれてない&参照引用されてない資料、ってことになるわけで、そう思うと眼前のボロ本も何やらいとおしく……