コピペ上等、の論理

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 なぜ、ノートとペンで手書きでメモとることが大事なのか、という理由の説明をそれなりにしてみせることがでけんまんま「そういうものだから」でやってきとったんだわなぁ……仕方ないっちゃないんだが。

 前から言うとる、コピー&ペースト(の切り貼り)はなぜいけないのか、と同じだと思うんだが、それをそれなりに説明しようとしてみせた上で「やっちゃダメだよ」とやれとる学校のセンセってどれくらいおらすんだろうか、といつもおも。

 コピペ「だけ」でレポート書かせる、なんてワヤもやってみたことあるが、どこの何からコピーしてきたか、も明示して。でも、若い衆的にゃこれはこれで結構難儀らしくて、な。いちいちコピー元明示するのかったるい、とか。

 じゃあ、図書館の本や文献資料から「引用」するのと、そのコピペとどう違うのか、というギモンだって中には抱く若い衆も出てくるわけで、な。それはそれでまっとうなギモンなわけで、そこから、「自分」のレポートや報告をこさえることの意味、とかも説明しやすくなったりするんで、な。

 「記録」することの主体、がどんどん希薄化&情報環境に溶解していっとることとも関係するんだが、「自分」が「記録」する、という行為自体がその「記録」に対する責任や主体性、制御のありようなどまで含めて社会的な文脈において位置づけられてゆく、といったことに気づいてもらう必要があるんだが。

 講義のメモやノートも、スマホで録音して文字化アプリ稼動して「記録」にすることも可能な昨今、でも、そうやってこさえられたテキスト情報は自分でこさえたメモやノートと同じなのかどうか、ということについての議論の必要。少なくとも自分の学びなり「わかる」に向かう作業の過程での意味あいとして。

 自分がわざわざその時間その場所に足運んで講義を受けた、その体験含めて後に参照or引用可能なものに変換するための道具のひとつとしてのメモやノート、という意味で、そういうデジタイズ自動化でこさえられたテキストは、手書きのメモやノートとどう違うor同じなのか、という、な。

 昔の大学なら試験前にノートをコピーして回したり販売すらする商売があったりしたが、それら他人の作った「きれいに整理された」(のが求められてた)ノートを使ってノートとった本人より「要領よく」いい成績とるのもいたわけで、な。デジタイズ自動化ノートで「要領よく」結果出すのとどう違う、と。

 ただ、その「要領よく」他人のノートでいい成績とれたような御仁も、小学校からずっとそういう「要領よく」でやってきたからそういう能力「も」備わってたのかっていうとそういうわけでもなく、基本的な学びの作法があって初めて「要領よく」も運用できる、というあたりのことを話して説明するんだが。

 「自分バカだし勉強も文章書くのも苦手だし、だったら自分よりアタマ良い人がいろいろ考えた情報を引っ張ってきて切り貼りした方がいいレポート書けるんでね?」

 一理あるのだ、これはこれで。(実際、こう言う若い衆おったし)

「でも、その情報選んで引っ張ってくるのもバカかも知れんおまえだし、切り貼りしてカタチにするのもバカかも知れんおまえだから、バカかも知れんおまえってのはなかったことにはでけんのと違うん?」(´・ω・`)

 なんかこんな感じで返してみたんだが。

 どんなにズルい汚い手使ってでも「要領よく」世渡りして人よりいい暮らししてやるんだ! っていうならそれはそれ、ひとつの立場だしほんとにそれを確かに自分のものにしとるんなら尊重する。そういう自分をことばにして表現&説得できるようになっとるなら。そうでないならまだ「自分」じゃない、と。

*1:学生若い衆の、それも初年次教育といった脈絡での講義で毎年毎年直面するお題として。