教養とメモの関係・雑感

 いろいろあるにせよ、われわれの生きているこの社会や文化、歴史に関する理解の大枠の最低線くらいは、「大学」なり「学問」なりが、まあ、担保してくれているんだろうな、という漠然とした信頼程度すら昨今、失われつつあるように感じる本邦いまどきの状況というのは、あまりよろしくないだろう、な。

 いわゆる「教養」(的なるもの)に対する最低限の信頼、基本は無関心&餅は餅屋に任せとくわ、的な感覚含めた世間一般その他おおぜいからの「そういうもの」としての信託委任統治みたいなありようを、「大学」や「学問」が自ら毀損して放り出しつつあることのワヤ。

 手書きで自分の手を動かしてノートをとる、という習慣が、学生若い衆世代の間から絶滅しかかっていることは、以前から危惧していた。

 てか、他人ごとでもなく、自分自身意識的に手書きでメモをとろうと課してないと、忘れがちになっとる……ボケ老化劣化防止のためにも、手書きの習慣大事、マジ大事。

 紙きれでもチラ裏(死語っぽい…)でも、手書きで書いたメモやノートをかき集めて、それを別途大きなノート(A2版くらいがラク)に貼りつけてゆくことで脳内整理推奨。大きめの付箋を使ってもいいが、これは高くつくのと、手書きで書く際の気安さに欠ける憾みがあるのが難点。

10年くらい前に羽衣チョークを製造している会社の廃業をめぐるTV報道で、件のチョークをとある数学者が「思考を邪魔しないチョーク」と評していました。曰く手を動かす事で思考を進める、書く事と思考は不可分とのことでした。

某マーチ大学の数学教授から聞いた話しですが、学会で訪れたアメリカの大学では、トイレの個室にも黒板が設置されており羨ましく感じたそうです。金融工学のブラックショールズ方程式のフィシャー・ブラックも、普段から紙の束を持ち歩きいつでもメモがとれるようにしていたそうです。