何度かすでに似たような趣旨のことをボヤいたり触れたりしているけれども、ぶっちゃけ前世紀の活字/文字しか読まない日々を送るようになって久しい。「あたらしい」ものはそれだけで何か雑音、ノイズ、ものを落ち着いて考えようとする際の夾雑物になる、そんな感覚がもう半ば骨がらみになってしまっている。単に怠惰で老化と劣化のなせるわざ、ではあるかもしれない。そしてもちろん、日々の暮らしのルーティンから一定の場所に通い、人と会い、若い衆らに語りかけ、かつまた話を聴き、といった機会がきれいさっぱり放逐されてしまったこともまた、要因になっていること、言うまでもない。
けれども、何か系統だててある目的なり目標なりを設定して、そこに向けて絵図を描いて必要なものを読むといった「仕事としての読む」から全く離れてしまい、そのことの不安みたいなものは同時に、やはりあったりはする。いまさらもっともらしくしおらしく反省してみたところで、こういう習い性になってしまったものはどうなるものでもないのだけれども、それでもやはり、これでいいのかな、といった軽い疑問や懸念は常にどこかにひっかかっていて、またそれがまだあるなら大丈夫なのかな、と自分に言い聞かせながら、今日もまた、手もとの雑書古書の山からゴソゴソ発掘したりしている日々。
「うた」ということひとつを糸口に、あれこれ千鳥足で考えてゆく機会を与えてもらっていて、ありがたいことに月に一度であれ「締切り」という区切りを設けてもらうことで、ともすればグダグダになりがちなそのやくたいもない「読む」の営みに、最低限のけじめをつけることができているのが、このところもうずっと何かの道しるべのようになっている。流行り唄の類から始まったはずだったのが、例によって「うた」と語りのこと、歌詞と記述のこと、それらを読むリテラシーやそれらが宿ってゆき、そしてまた転変してゆく流れのこと、などなど、
「詩」というのもまた、そんな道行きの中でいまさらながらに意識しなおすようになったことのひとつらしい。「詩」も、そしてそれをもっぱら手がける「詩人」という人がたも、どうにもこうにも縁が薄く、いや、それだけでもなく初手からこっちが遠巻きにして避けていた、それだけの敷居の高さがまずあったのだろうが、何にせよ遠ざけていた界隈のひとつではあったのだ。
自ら「詩人」と称するようなけったいなやつも、思えばいつしかいなくなった。ある時期までなら「旅人」とか「夢追い人」などにも横転していったような、自らそういう現実離れした夢想に生きていることを敢えて自称するような自意識のありよう。いや、いたんだってば、大学のサークル界隈なんかにうっかりと。これが「吟遊詩人」というあたりになると、さすがにそうとは言わずともさらに症状が拗れていたのが当然で、ああ、このへんはあのムーミンのスナフキンあたりが悪さしていた可能性は大きいような。
あるいは、アタゴオルのあの世界観、およびそこに跋扈していたキャラクターたちなどにも。
ああ、そうくるなら、ギターを持った渡り鳥、から、ソーラン渡り鳥、まで、本邦「民俗」レベルの想像力の水脈に流れ込んだ「吟遊詩人」のありようも、また。
「吟遊詩人」という言葉自体、トゥルバドールの訳語として出てきたものとされているけれども、それこそイメージとしての「吟遊詩人」が、当時実際に存在して詩作をしていた現実の本邦の「詩人」とどれくらいかけ離れたものだったのか、とか、また例によってのとりとめなくも漠然としたお題のひとつとして袋の中へ。