末期の書棚、最後のアーカイヴ・雑感

 本って、カタチは書物で同じでも、その活用の仕方/され方ってのは結構千差万別で、それは内容によって図書館的に分類される枠組みにおいてというだけでもなく、それらを「使う」こちら側の目的によっても違ってくるところがあるらしく。

 大学なんかで、これこれの課題図書を指定されてレポート書け、みたいな場合は、そりゃその内容や文脈に従って「読む」のを求められとるんだろうが、それとは違う、たとえばある一定のお題に沿って横断的にというか検索的に「読む」場合もあるわけで。

 レファレンス、ってのか?何でもいいが、そういう横断的に、個々の本の内容や文脈とは別の「読む」をする「使う」もあって、でもそれっていきなりできるわけでもなく、かつ「効率的」な作業にも本質的にはなりにくいものなんでないか、とはかねがね思うとるところ。

 一定の蓄積、ランダムに雑に手当たり次第に読んでゆく経験を重ねた上に宿り得るような「あたりのつけ方」みたいなものを自前で実装できているかどうか、それとの関係でそういう横断的な「読む」の成果のあがり具合も違ってくるように感じる。

 で、それも「正解」はないんだわ、きっと。どの程度まで、とか、どれくらい蓄積すれば、という基準は、おそらくない。「人によって違う」し「お題によって違う」としか言いようがない。そしてそのための前提となる本の集積は「図書館」という形態が最も適切かどうか、それもまた違うような気がする。

 本邦の古本市場が「もうひとつのアーカイヴ」であり得る、というのは前々からの漠然とした持論というか単なる印象なんだが、それに接続するなら、そういう横断的な「読む」のための本の集積の形態として、本邦古本市場が結果的に生成してきた市場のあり方ってのは要検討お題なんだとおも。

 そういう「読む」のための本の集積が自前以外でどこかに準備されているのなら、何もあくせく自前自腹で古書雑本集積の道行きをする必要もないのかも。自前でそんなことやってきとるのは、自分の「読む」に見合う集積を自前で蓄積してゆくしかないことと対応しているのだとおも。

 そういう横断的な「読む」に適した集積というものさしで、いずれこのやくたいもない古書雑本の山を仕分けせにゃならん時も近づいてきとるんだろう、と最近少しずつ覚悟し始めてはいる。終活の一環、断捨離の一端と言われればそうかもしれんが、そういうのとはまた少し違う意味でのつもり。

 ひとつ言えそうなのは、いわゆる専門書とか呼ばれるような「論文」中心、文脈構築的な内容のものではなく、個別具体の挿話や細部、どうでもよさげな事実がランダムにかき集められているような、そういうタイプの本を残してゆくようになる予感はしている。

 ある時期まで割と精力的に集める気になって集めていた、たとえば柳田國男関連の研究書や専門書の類、その他それぞれ領域でのそういう本は、もしかしたら全部まとめて市場に放流することになるのかもな、と鈍く思うようになってきた。

 ほんとに雑本系しか残らないのかもしれんし、それはそれで自分にとっては本領の集積の仕方、自分の手にあった「読む」のための、この先生きてこの世にある限りつきあってゆけそうな集積の仕方なんじゃないか、とゆるく思い始めている。末期の書棚のありかた、みたいな意味でも。

 専門書や研究書の類、かっちりした論理によって構築されている本ならば、何度も繰り返し読むことでの「発見」というのはあるにせよ、でもそれは、自分などの横断的な「読み」でのそれと違うものになるんだろう、と。そして前者のような「発見」は自分にとっては縁のないものなんだろう、善し悪し別に。

 このへん、あの「貫く論理」と「連ねる論理」の違い、なんかにも、ああ、やっぱり立ち戻ってきちまうのかぁ、と嘆息してしまう自分もいる、還暦とうに越えた無職老害隠居の身、令和の春の夜。