液晶モニタのウスッペラいペカペカした光に、深みや、より遠くに踏み込んで行くようなものが映ると、作る方も見る方もある種の恐怖を覚えるのだろう。
— シバショウゴ(田舎わたらひしける人) (@show5shiba) February 2, 2019
自分の内面に、それらのものを理解していく回路が無いから、理解できないものを怖れる。
そして絵柄が旧いとか言って攻撃し、恐怖を忘れようとする。
ノートPCとデスクトップPCのモニタ画面との「距離感」の違い、が気になっていた。こちとら老眼・近眼なことを考慮しても、やっぱり道具としての使い勝手の違いがあるように思う。
もしかしたらこれ、活字の本を「読む」際の「距離感」に規定されとるんかな、とふと。モニタの寸法というか、一定以上の大画面にやっぱりなじめないというのも理由はそういうことかも。同じモニタに何枚も画面拡げられるのが「便利」とは必ずしも限らないし、何より気が散ってかなわんという、ある種のマルチタスク音痴。少なくとも文字テキスト系のものはあかんらしく。
「集中」するということと、文字/活字を「読む」ことの関連について。と同時に、それは海外の異なる母語においてどうなんだろう、とかいろいろと。
*1:このNOTESは、その都度拾ったtweetその他のweb介した情報や走り書きをあらかじめ「下書き」に放り込んでおいたものを、ある程度時間をおいて見直したり、その後そのお題にまつわる考えをあれこれ整理したりしながら、ある程度まとまった時に、その最初に記録した時点の日付で公開してゆくという自分ルールにしているのだけれども、そして、だからこの記事も公開したのは半年以上素材として寝かしておいた後のことになるのだけれども、まあ、そんな事情もあって一連の要継続審議なお題が連なってゆくことになるわけで、このtweetの内容もまた、そういう意味で「画像/映像」を日常に映し出すモニタ以下のデバイスの解像度含めた「クオリティ」がそれらを介した表現の「読み/解釈」に影響してきているかも知れない件、と関わってくる。……190914