1970年代末から90年代初頭にかけて、自然科学と今でいう自己啓発をないまぜに雑学衒学とりまぜていい加減なこと吹きまくっても締めにフランスの哲学者や英語圏の科学者の引用(正確でなくても加)いれれば、世間でまかり通れる時代がありまして
— 原田 実 (@gishigaku) 2019年2月1日
工作舎と松岡正剛に象徴されるファッショナブル、あるいはオサレは、その後猖獗を極めた80年代的なニューアカ/ポスモの重要な下地になったこと。「思想」が商品となったこと、はもちろんだけれどもそれはことの半分であって、それ以前もすでに「思想」は商品として流通してきていた、戦前からずっと。
ただ、その「商品」としての思想は必ず何か具体的な背景、社会なり生活なりとどこかで結びついて紐付けられるべきものであり、そういう需要によって市場も成りたっていたところはある。そしてその市場というのも主として出版市場、紙の媒体である書籍を中核にした広がりとして存在してきていた。だから、それらに関わる人がたは「読書人」であり、そのように活字の媒体に接することを基本的なモードとして実装していたような人がただった。少なくともそれまではそのはず、そういう約束ごとが生きているはず、だった。
けれども、どうやらそういう約束ごと――たとえ「商品」として市場に流通し誰もが手にとることができるようになってはいても、思想や教養と名づけられるそれら「商品」はそれを手に取る人がた(「消費者」というもの言いはまだそういう「商品」についてはなじまなかった)にとってはそれぞれの生活や日常、そしてそこに日々生きる自分たち自身の生身のありようと否応なく紐付けられる「べき」もの、という一線は、「豊かさ」の中で煮崩れ始めていたらしい。それまでならば、それこそ「様々なる意匠」を手に取り賞翫することのできる人がたは相対的にまだ限られていたし、それらの状況においてなお守られるべき何ものか、も自明に想定され得ていたものが、敗戦と戦後の復興期をくぐった後、実現され始めた「豊かさ」の中、それまでとは比べものにならないくらいに広い範囲に平等に均質に「様々な意匠」としての「教養」が当時の感覚に沿った「ファッショナブル」をまとって一気に眼前に陳列されるようになったいた。*2
以下、冒頭の原田氏のtweetの続き。結果的にわかりやすくまとめる形になっているので、敢えて引き出して並べてみる。
「トンデモ本」という概念が生まれたきっかけは、と学会創設会員の藤倉珊さんが「宇宙の始まりにブラックバーンが爆発した」というビジネス書を見ても笑うどころか、ありがたがる人が結構いる、ということに気付いたことだったわけでまさにこの時代…
で、こういう時代だから、八幡書店の本も安定した市場を確保でき、人手が必要になって、私も入社できたわけだから私自身もこの時代の申し子の一人。
この風潮は日本だけの現象ではなかったわけだが、私見では、この時代の幕を閉じたのは世界的にはソーカル事件、日本国内についていえばバブル経済崩壊とオウム真理教による一連のテロ発覚だった。
で、松岡正剛さんはその時代のカリスマの一人だったわけで、今時の人には珍奇に見える発言はその時代の芸風を今も続けているから。松岡正剛さんが実質運営していた工作舎はニューアカの発信源の一つだったわけだが、今にして思えば当時の工作舎の最大の功績は、かつてハナアイアイ諸島に生息していた鼻行類の生態報告を日本に紹介したことかも。
こういう叢書を本棚に飾ることがファッショナブルだというイメージを宣伝していたのが当時の工作舎だったわけで。
https://www.kousakusha.co.jp/BOOK/kagakuseishin.html
「ファッショナブル」という言い方が、やはり重要なのだと思う。
「イケてる」でも「おしゃれ」でも何でもいいけれども、要はつまりそういうこと。知識なり教養なりがそのように「ファッショナブル」という意味あいをうっかりまつわらせるようになってきていた、少なくともそのような意味あいと共に理解するのが新しい、そんな感覚が当時、マチの学生などの若い衆世代のある部分に取り憑き始めていた。それまでなら「教養」ですまされていたようなものが、その同じ中身のまま「ファッショナブル」な意味をまつわらせることができるようになっていた。そういう変化こそが、ここで触れられている「工作舎」的なるもの、を現出させていった当時の情報環境のある本質でもあった。そういう意味で、確かに「新しい」当時の尖端の世相風俗の一点景ではあった。
しかし、それは同時に、ある系譜の中に位置づけられるべきココロのありよう、意識の様態でもあったらしい。たとえば、こんな風に。
哲學の本がこの時程賣れたことはないと本屋は云ふ。我々は電車の中で、若い女事務員が詩集を讀んでゐるのを見かけないことはなかった。インフレイションは相對的に哲學の本を安い商品にし、公衆の娯樂機関の喪失は女事務員をして詩集を讀ませたかも知れない。しかしそれだけではない。この世代を代表する知識階級は、やがて、一斉に、詩人として登場するであらう。又一斉に、絶對矛盾の自己同一に就いて語るであらう。そして、彼等がつくる詩と哲學との時代は、みそぎと玉砕と竹槍との時代の中に包れながら、却ってその野蠻な時代よりもながく生延び、戦後の世界に、藝術と精神との代表者として、殆ど戦争の間を通じて営まれた唯一つの文明の傳統として、華々しく誇らかに復活するであらう。(…) 彼を産んだのは戦争の世代である。新しき星菫派は時代の流行病である。一九三〇年代、殊にその後半に廿代に達した都會の青年の多くは、多少とも此の様な傾向を示してゐる。*3
このような意味で、彼らは「70年代的星菫派」でもあったのだと思う。*4
それまでの公認された「教養」としての知識群が、もうそのままではしっくりこなくなり始めていた。人文社会系ならばその中核に位置していたマルクス主義的な枠組みが、高度経済成長の「豊かさ」によってそれこそ下部構造から煮崩れさせられ始めていた。「豊かさ」の中で社会化してきた当時の若い衆世代にとって、それら既存の公認された「教養」はそのままではもう「豊かさ」の中に生きる〈リアル〉をうまく意味づけ、説明してくれるものにはならなくなっていた。
だから、「ファッショナブル」が必要になった。「教養」を「ファッショナブル」にすることが「カッコいい」になった。「カッコいい」とは理屈ではない。感覚でありノリでありセンスである。理屈以前の瞬発的なキモチとして「(・∀・)イイ!!」と感じてしまう、その動態である。そのような動態に「教養」が放り込まれて、それまでと違う意味を付与されるようになっていった、ということだ。工作舎と松岡正剛が準備し組織していった「気分」というのは、そのような既存の「教養」を違う文脈、違う意味の流れの中に配置しなおしてゆくことで、未だことばにうまくされることのないままだった当時の〈リアル〉に、ひとつのわかりやすい解き方を具体的に示した。自分たちの裡の「気分」をかたちにし、ことばにしてゆく雛型としてそれらは機能した(らしい)。後のニューアカ/ポスモで全面化していったある「気分」の前段階には、ざっとこんな事情も含まれていたのだと思う。*5
*1:工作舎と松岡正剛「的なるもの」について。残念ながら、というか、幸いにも、というか、自分はそういうものにほとんどかぶれなかった。その程度に真性イナカもんだったということだけれども、まわりには確かにそういう人がたはいた。生身の具体的な事例としてじかに接することになったのは畏友浅羽通明などあたりからだったかも知れないのだが。king-biscuit.hatenablog.com
*2:工作舎の当時についてはこんな本も少し前に出ていた。書評を求められたので書いたけれども、ある意味民俗資料としていろいろ感慨深いものがあった。king-biscuit.hatenablog.com
*4:これは、たとえば渋澤龍彦や稲垣足穂などを好んで読むような読書傾向、そのような「本読み」たちの気分などまで焦点を拡げて捉えていいだろう。そして言い添えておけば、それらの中にかなりの比率である種のオンナの人がたが平然と混じるようになっていたこと、というのはその後のニューアカ/ポスモからいわゆるサブカル状況全面化の展開から、さらに言えば「戦後」の情報環境とその裡に宿っていった日本人のココロのありようなどまで含めて考えようとする場合に、忘れてはならない点のひとつだと思う。
*5:いまどき若い衆にこのあたりの話をある程度わかるようにしてゆこうとすると、まずその「教養」でも何でも、いずれ大学で読まされるようなムツカシげな本の中身や、またそういう本を書いていたりするめんどくさげな人がたの固有名詞がひとしなみに「ファッショナブル」にオサレに感じられた、ということ自体が(゚Д゚)ハァ?……(つд⊂)ゴシゴシになる。比喩としての「アイドル」というもの言い自体がいまどきの彼ら彼女らの準拠枠としては別モノになっているし、このあたりの彼我の距離感というのはいろいろと深刻なものがある。