90年代の文化は、80年代の「ネガ」として自分たちを位置づけていた(その「ネガ」がようやく日の目を見た)という「露悪」に彩られていたと思います。80年代の軽薄さの裏返しとしての湾岸戦争の「反戦」表明、ニューアカの裏返しとしてのオウムの糾弾ないしは東浩紀『存在論的、郵便的』の評価、等など https://t.co/BhllyOlBwh
— 踊る猫 (@aciddazeareback) 2021年7月20日
90年代の文化は、80年代の「ネガ」として自分たちを位置づけていた(その「ネガ」がようやく日の目を見た)という「露悪」に彩られていたと思います。80年代の軽薄さの裏返しとしての湾岸戦争の「反戦」表明、ニューアカの裏返しとしてのオウムの糾弾ないしは東浩紀『存在論的、郵便的』の評価、等など
TLでも言及されとったけど、蓮見的なシネフィル系、それこそ「リュミエール」wみたいなのがあって、それに対するカウンターとして「映画秘宝」的なものもあり得たところ、あったんだわな。もっと大きく言えば、80年代ポスモ・ニューアカ的なノリに対するカウンターという立ち位置。
村崎百郎は福田和也あたりとつるんでブイブイ言わせとったが、根本敬はそれこそ青山正明なんかと共に、時期的にも世代的にも村崎などの90年代的「鬼畜系」より前、という印象&記憶なんだわな、極私的には。
たとえばその村崎も根本も青山も実年齢的には誤差の範囲、ざっくり同世代と言っていいんだが、でも質的な違いというか、タマの出どころが違ってるというか、うまく言えんけれども同じ当時の「サブカル者」(と当時からくくられてたかどうかはともかく)としても、くっきり「違い」が滲出しとったとおも。
「映画秘宝」なんかは自分的にはそんなに「鬼畜系」ってくくりじゃなかったなぁ、良くも悪くも。いま言われてるような90年代的な「鬼畜系」ってのは、それこそ村崎やQJあたりがまとっていた雰囲気に代表されてたような気がする。自分などの場所からはむしろ時代の波乗りしてるキラキラ界隈に見えてた。
TLでも言及されとったけど、蓮見的なシネフィル系、それこそ「リュミエール」wみたいなのがあって、それに対するカウンターとして「映画秘宝」的なものもあり得たところ、あったんだわな。もっと大きく言えば、80年代ポスモ・ニューアカ的なノリに対するカウンターという立ち位置。
だから、初発の地点での「鬼畜系」(と後にくくられるようになったもの)のノリというか、彼らがマウント的な気分を持っていたその「正義」のありかってのは、けったくそ悪いポスモ・ニューアカ的なスカしたノリに対する、自前の〈リアル〉の提示というところは確実にあったんだわ。
その意味での共感はあったんだわ、自分みたいな外道(いろんな意味で)にとっても、のちの「鬼畜系」に至る最初の道筋の途上においては。