物語というトンネル

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 このあたりの違和感は最近、若い衆世代の感覚としても観察されてきている。与えられている枠組みから外れることを忌避する。いや、忌避するよりもなお、そんな選択肢があること自体を想定しない、ないしはできない。なぜそんなことをしなければならないのか、という感じらしい。それは単なる世代差や生まれ育った時代の違いなどといったところだけで回収されてしまっていいものでもどうやらなく、現実を認識し解釈してゆく枠組み、いわゆる「おはなし」とのつきあい方のあたりまえが大きく変わってきているらしいこと、その「おはなし」のありよう自体も含めてこれまでと違うものになってきている気配も含めて、立ち止まっておくべきことなのだと思う。

 結末が保証されてわかっていないことには安心して楽しめない。決定的な破綻や修復不可能な事態が起こってもらっては困るし、そんなのは自分が関わる現実にあってはならない。用心がいいと言えばそうなのだが、ただそれを「おはなし」という枠組みとのつきあい方にまで敷衍するようになっているというのは、少しまた違う意味を含んだ事態なのではないだろうか。

 「おはなし」と現実 (こういう二分法図式自体が間違いのもと、というのはこれまで何度も言ってきたことだが、それはひとまず措いておく) の間がすんなり地続きになってしまっている、ということはあるかも知れない。どうせ「おはなし」だから、という多寡のくくり方をうまくできなくなっている。だとしたら、たとえばジェットコースターやバンジージャンプなど実際の危険を「あそび」の範疇で疑似体験させるようなアトラクションも同じく忌避されるはずだが、それはそれで結構な人気を博し続けてもいるらしく、そうなるとなかなかうまい説明がつかなくなる。

 映画だから、というメディアの特性が関わっている可能性もあるかも知れない。文字を介した小説やラノベならもっと荒唐無稽な展開はいくらでもあるわけだし、なるほど「映像」を介した〈リアル〉に対する鋭敏さみたいなところは考えられなくもなさそうではある。

 違う面からは、「おはなし」が宿る空間というか、そのようなつくりものとしての虚構とつきあうための「場」のようなものに対する感覚が違うのかも、というのもある。それこそ近代的な遠近法が成り立っている「場」ではない、だから起承転結的な、ある種浪漫的な帰結に沿った展開を保証されないし、それらとの関係で確かな「こちら側」≒読者or主体が約束されているわけでもない空間。自分も「おはなし」も共に同じ均質な空間に埋没するしかないような、そんな「場」なのだとしたら、それは確かに帰結がわからないままだと不安しか喚起されないものになるだろう。

 もしかしたら、かつての新聞の連載小説のように、その場その場の場面だけが〈いま・ここ〉に立ち上がり、それらが連続している「場」には近代的な遠近法が作用していないような空間なのだとしたら、そもそもここで言われているような「トンネル」という比喩自体、あまり響いてゆかない可能性もある。「トンネル」自体が起点と終点、入り口と出口が明確にリニアーに設定される環境なわけで、それこそ見事に一点透視的な遠近法を反映した比喩になってたりするし。「おはなし」が宿る空間がすでにもうそのような近代以前、いや、以前か以後かそのへんはどうでもいいのだが、この「自分」を前提にした、そしてその前提を成り立たせるがゆえに存立していたはずの近代的(だか何だか)な遠近法がもう自明に効かなくなっている領域が、実はもう静かに21世紀の〈いま・ここ〉に広がってきているのだとしたら、いよいよもって「ブンガク」などはもうカタカナ書きで揶揄冷笑して正気を保とうとすること自体がすでに焼け石に水、どうにもならないあがきでしかなくなってくる。*1


 40字程度の尺で、そしてそれをささっと斜めに読む(というか見る、かもしれん)ことのできる程度の時間の範囲で、何かを察知すること、その体験が瞬発的に連なってゆくことによって構築されてゆく「おはなし」(≒ここで言われているような「物語」でもいい) というのは、息の長いリニアーで連続的なものではないこと言うまでもなく。それはある意味、新聞小説の「連載」的な、寄席の講談の「続き読み」的な、その場その場の鮮烈な印象をもとにしながら、その上にまた新たな印象を連ねてゆく、そのような筋道のつけ方になってくる。このへん、同じSNSでも本邦同胞にはTwitterがいたく気に入られているらしいことの背景に横たわる「おはなし」に対する手癖や習い性みたいな部分が関わってきているような気がしないでもない。

 このへん、梅棹忠夫がかつて柳田國男の文体について言った「連ねる論理」などにも、どこかでクロスしてくるお題になってくる。いわゆる近代的な科学の依って立つ「貫く論理」とは別の論理で構築されている、といった意味の評言だったはずだが、要は当時言われていた「柳田の民俗学は「科学」ではない」といった一部の批判に対して、それは前提になっている方法意識が違うだけで、柳田の書いたものの背後にはある種の「論理」が確かにある、というのが梅棹の見解だった。事実を連ねてゆくだけで起点も終点も、前提も論理も結論もよく見えない、という「読み方」それ自体が、柳田の文体と相容れない遠近法前提のものなんだぜ、というところまでこちらで引き受けてゆくならば、40年以上前の彼の評言もまた、案外にうっかり何かを射抜いていたのかもしれない、とこれまたこちとらも40年ほどたってからこうやって思い至ったりもするから、「読む」ってのはおっかなくもオモシロい。*2

 

*1:まあ、そういう領域が世間のドミナントとしてずっと続いてきていたのかもしれず、それに気づかないまんまだったのはたまたまうっかり文字や活字の「読む」を実装しちまって、それ足場の「わかる」しか世間に存在しないもの、と勝手に決めてかかってたこちとらなどの問題ってだけのことなのかもしれず、いずれにせよ、そういう意味では「21世紀の〈いま・ここ〉」などと力みかえってみせても致し方のないことかもしれんのだけれども。

*2:このへん例によって例の如く、ゆるゆると継続要検討お題の一環として。