北海道というコスト・メモ

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 北海道だけでなく、日本の地方部全体の問題なのだが、ことに北海道は酷寒と積雪によるインフラ維持コストが高く、その不利さが際立ってしまう。それでも、19世紀のアラスカのごとく売り飛ばすわけには行かないのであるが……(あれはロシア帝国の大失点であったろう)


 新潟県の山古志で無人運転のテストが行われたとのラジオニュースを先頃聞いた。よくあのような厳しい山里で、と思ったが……
北海道でも無人運転の試験は盛んに行われていると聞く。土地柄必然だろう。ただ、雪と氷で道が道の体を為さなくなる土地で、どこまで実用できるか、それが問題だ。


 古く、小樽発着の日本海航路は、北海道北部への数少ない交通路だった。だいたい名寄から先の鉄道建設が大正末までかかったので、日露戦勝による南樺太領有後も、しばらくは小樽発航路でなければ連絡できなかったのだ。


 それでも陸路伝いに電信線は引かれたようであるが、明治44年5月の稚内大火(このときは道内各地で野火による大火が多発した)は、当時の稚内の町をあらかた焼き尽くし、郵便局に設けられた電信設備まで被災、一時は道北の電信ルート全体が途絶し、数日間は船に情報を託すしかなかった。


 ようやく暖かくなった5月ですら、陸路より海路に頼る方が主、というのが、鉄道以前の北海道沿岸部交通の実態だったのである。もっとも、陸続きでも海路頼りがメインなエリアは、昭和前期まで日本のあちこちにあったのだが。


 そして鉄道開通以後の北海道では、自動車交通が実用にならない時代も長かった。冬に白魔を拓けたのは、除雪車と人力を動員できた鉄道だけで、国道の狩勝峠などは戦後もしばらく冬季閉鎖だった。しかし工業化とモータリゼーションにより、鉄道の除雪力に道路除雪体制は肉薄し、やがて追い抜いた。


 新直轄制度で高規格の無料高速道路が延伸され、高速道路網は釧路へ、北見へ、紋別へと迫る。サロベツの地にすら『高速道路』ができた現実に打ちのめされたのは、5年前のことだった。地元の方々の気持ちはともかく、『鉄道なしで生活も経済活動も国防も間に合うということか』という愕然は正直あった。


 鉄道がすべてを担った、また担えた時代がかつてあったが、今やそれは過去のものとなり、日本においては旅客に限った大量高速輸送・大都市通勤輸送の手段となって、貨物輸送のシェアはわずかだ。無人地をゆく単線非電化な北の鉄路が、息詰まり、立ち腐れる日も、遠くはないように思われるのである。


 幸いというべきか……バラマキという血税空港が紋別中標津などでジェット化されているのが救いと…稚内女満別、釧路、帯広、旭川といった数多い空港をもう少し何とか出来ないものかと考えてしまいます。AIRDoをもう少しLCC寄りにしてこの各空港に格安で乗り入れるとか、道内のみの運行などとか……。


 空路は、千歳への迂回、丘珠ジェット化の困難と、運賃の高止まり(道内では仕方ないのですが)など厳しい点が多いですね。あとバスと違って客を拾いきれない。女満別中標津はまだともかく、紋別のような本当にどうしようもない空港まであるのがまた苦しいです。成田から紋別中標津、出来れば女満別稚内などエンブラエルMRJといった定員100席未満で北海道営LCC、まあAIRDoなんですが…掘り起こしになりませぬかなぁと。でも、沖縄もレキオス失敗して、結局外資か大手参加のLCCになっている現状を見ると……


 女満別は北見と網走の両市、観光地の知床や流氷接岸地帯などが比較的固まっているため、それなりの需要が見込めると思いますが、他は厳しいでしょうね。中標津は釧路空港との競合、稚内は需要僅少、紋別は論外で……釧路か女満別ぐらいの羽田・大阪便がないとやはり辛いものがあります。


 中標津根室需要が多く、根室やそれこそ北方4島があり、活気付けばそれなりかと思われるのですが……紋別は調べれば調べるほど絶望感しかないですね。稚内中標津も「あーあ」なのは間違いないのですが何故あそこにというのが紋別ですね。本当に血税空港と…名寄本線を無くしたのは大きいですね。


 中標津は場所からすればずいぶん大きな拠点『都市』の体裁を備えているのが、昨年夏に訪れた時に感じた意外な印象でした。周囲に別海、標津、羅臼という後背地があるおかげでしょう。根室は本来北方4島という後背地あってのまちで、漁業が弱ったいまは先々厳しいと感じます。

 ご当地道内交通網の件は、空路に限らずそもそも鉄道、JR北海道のていたらくはもう言うに及ばず、道路整備についても一律高速道路が通りつつあるように見られている一方で、たとえば「高規格道」というのは道路公団直轄の「高速道路」とはまた違うクオリティが設定されていたりするらしく、それ以外でも国道と道道、さらに下位の道路の間のそれなりの格差や違いが日々の使用で体感されてくるといった挿話は、運送関連のトラックや救急車などから聞えてきたりもする。「でっかいどう、北海道」というその「広さ」というのは、観念概念イメージではなく、そこに日々生きて棲んでいる者たちの感覚としてはどうしようもなく具体的なのであり、だからこそどうにかして対応しつきあってゆかねばならない現実ではあるのだ、あたりまえだけれども。

 「北海道」というくくりでのアイデンティティというのは、ご当地住民いわゆる「道民」感覚として、実はそれほどはっきり持たれているわけではないんじゃないか、とずっと感じている。前にも何度か触れているとは思うが、それぞれ日々生きている地域なり地元というのがまずあって、〈それ以外〉は同じ道内であっても通常はほとんど意識にないみたいだし、何より具体的に足向けることの少ない土地が互いに存在している、ただそれだけのことだったりするらしい。札幌圏は一極集中で人口が多いけれども、その内側ですら、いくつかのパーツに分かれての生活圏が併存している印象が強くて、たとえば首都圏や京阪神など海峡以南の「内地」ニッポン本体の都市圏と比べたら、たとえば通勤通学的な一方向での人口移動の度合いが少ないんじゃないだろうか。200万都市の札幌でさえも、郊外から都心部への通勤通学的な動きはそれほど決定的に大きなものでもなく、それぞれのパーツとしての地域ごとのまとまり内部での移動くらいで日常はすまされているような感じなのだ。まして、それ以上の大きなまとまりとなると、たとえば道南と道央札幌圏は別の世界だし、それらと道東はまた見事に違う土地、さらに旭川から向こう、宗谷地方や網走方面などもまた違う地方異なる風土を確実に持っていて、それらはみんな相互に基本的に「関係あまりないまま」に日々を過している、そんな印象。

 なのに、漠然とした「北海道」というくくり方での何かイメージだけはなぜかあるにはあるらしい。それは「とにかくこの北海道がいちばんいいところ」という理屈抜きの確信として抱かれていて、でもだからと言って海峡以南の他の土地に移り住んだり暮らしたりした上での比較で、というわけでもなく、ほんとに「そういうもの」「とにかくあたりまえ」としてのこの北海道が一番、ということなのだ。やはり漠然と「広さ」が最前提にあるプチ大陸、しかも内地のような歴史や伝統が一歩足踏み出すごとににじみ出て湧いてくるような鬱陶しさ疎ましさもまず稀薄、フラットに何となくぼ~っと広がるそういう土地、そんな風景がそのまま土地柄気質として存在している、それがご当地北海道的「自由」の、あの「なんもだよ」でとりあえず全部片づける、片づけてしまえる、そうするのがいちばん間違いないといった感覚に通じている。これも何度も言ってきていることではあるけれども。

 アメリカとよく比べられて、それこそ道内航空路の整備みたいなことは昔から言われてきているようだし、実際そういう構想で今の道内路線もつくられてきているはずだが、実際需要がそんなにないから成り立たずできたり消えたりの路線が多いのだろうし、丘珠空港発着でビジネス利用が最も見込まれると言われてきている札幌~函館便ですら、新千歳発着便も含めてそんなに採算がとれているわけでもないというからこれはもう他は推して知るべしなわけで。ラジオと自動車で「広さ」を克服していったと言われるアメリカの1920年代以降の大衆社会化の経緯などと比べても、交通路含めたメディアの整備といったインフラの問題だけでなく、それらインフラを運営し「使い回す」側の意識の問題、ご当地道民がたにとってのその「広さ」への構え方などが、「民俗」レベル含めた「歴史/文化」的問題としてもからんできているのだと思っている。

 北海道とヒコーキ、というお題で個人的に印象深かったのが、この『イカロスの娘』。御厨さと美の意欲作で、残念ながら未完の尻切れ蜻蛉のままで終わっているのだが、当時からおそらく何か下敷きとなる実際の挿話や歴史的なエピソード含めた何かがあって、それを手の裡に入れた上での「おはなし」なんだろう、とずっとにらんだまま、これまた例によっての日々是にまぎれてちゃんと確認もできずにいる。*2

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主人公は日野さやか。北海道は土建屋のじゃじゃ馬娘でヒコーキ馬鹿(´・ω・`)

*1:ご当地北海道のお題。ご当地に限らず「地方」の話のちいさな〈リアル〉はTwitter世間を介しての大切な情報収集の役割のひとつ。いわゆる「床屋政談」の類も当然含めてのこととして。

*2:御厨さと美さんご自身にも、かつて若気の至りでちょっとした仕事をお願いしたこともあって実際にお会いしていた時期もあったはずなのに……『裂けた旅券』以下、当時最も脂の乗っていた、そして表舞台に漫画描きとして活躍していたこの人の仕事もまた、いつかどこかでちゃんと自前で語っておかねばならないだけのものがあると思っている。