樺太、終戦時の記憶・メモ

 先日お邪魔したご高齢のお客さん宅。色々な作業が終わって、お茶を頂いた時に、自分の出身を聞かれて、お客さんの出身も聞き返したら、ちょっと難しそうな顔になって、


「北海道だけど、今は無い。」


と。なので千島か樺太かと思い、


樺太ですか?」


と答えると、少し嬉しそうな顔に。


「引き揚げ大変だったでしょう!大変にお疲れ様でした。」


と言うと、ポツリポツリと1から思い出す様に終戦前後の話をしてくれて。


 国境側の古屯という所に住んでて、終戦間際の日、家に帰ると母親が血相を変えて「ソ連が攻めてくる」と、パンパンに詰まったリュックを兄弟姉妹一つづつ渡されたと。


 日付は不明だけど、11日ぐらいらしい。お客さんは当時12歳。家のそばにあった、憲兵隊の建物も騒がしくなってて、いつもは私服の憲兵隊の兵隊さんが、軍服を着てたのが印象的だったと。そして、憲兵さんがひたすら「豊原か大泊に行け」とメガホンで絶叫してたそう。


 それからは、昼夜を分かたずひたすらに歩いたと。人生で1番歩いたらしい。鉄道は空襲受けたりして使えずに、ただひたすら歩いたと。何日めか判らないけど、豊原に着いた時に終戦を知ったと(15日かどうかは不明)。そして、「朝鮮人ソ連と連携して暴動を『起こすらしい』」という「噂」で、大泊へ。


 また数日歩いて、大泊に着いたと。お客さんが現地で知った時の時間が、リアルタイムの時間と戦後整合されてしまって、お客さんの記憶も若干修正されてる。豊原着はどうも8/17位だけど、そこでお客さんは終戦のニュースを知ったので、8/15着と思ってた感じ。


 大泊で晩飯に米を炊いていた時に、学校の友達と遭遇。半日遅れで到着して彼の家族が言うに、明日北海道行きの船が出ると。


 翌日乗船する際に、少し早く出航する小さい船か、少し遅れて出航する大きい船のどちらを選ぶかで悩んだらしいけど、件の友達の家族が稚内で降りるので、そちらに。


 すし詰めで何とか乗船して、半日弱で稚内入港。お客さんは親戚の家が近いので、次の小樽まで乗ろうとしたけども友達とその母親がしきりに

「寂しいから一緒に降りよう」
「心細いので、一緒に降りて親戚の家まで一緒に来てください」

と言われて、また歩くの嫌だなぁと思ったけども、母親が下船を決意


 これが運命の別れ道になった訳ですが、お客さんが乗船した船は、逓信省電䌫敷設船小笠原丸。稚内を出航後小樽へ向かう途中、ソ連潜水艦の雷撃を受け沈没。乗員乗客約700人の内、生存は約60名と。


 戦後、あの友達も「何故寂しい」なんて言ったかわからないと。


 そのお客さんに、小さい船は小笠原丸という船で、出航は8/20。大きい船は第二新興丸といって、同じく留萌沖でソ連潜水艦に襲撃を受け大勢の死傷者を出したと話したら、10日も歩いていたのか運が良かったと、大笑いしてた。あまり当時のことは調べたり思い出したりしてなかったそう。


 ただ、後の横綱大鵬が同じ船に乗ってた事は後日知ってたそうで、「横綱の乗る船は運がいい」と話してた。その後、お客さんの乗った船の運命も知る事無く、ひたすら歩いて現在の美唄に落ち着いたと。戦後しばらく経ってから、小笠原丸のその後を知ったと。


 そして奥様は美唄生まれの美唄育ち。空襲も何もなく、本土に食糧を送る船が無くて、戦争が始まる前より食べ物が多かったと、女性らしい視点で戦中戦後の事を話してくれた。噂には聞いていたけど、美唄には戦争捕虜収容所と炭鉱のタコ部屋があったそうで。


 戦争捕虜収容所(メリケン部屋と呼んでたらしい)は遠くから見る程度だったけど、炭鉱タコ部屋は市街地に程近く、朝鮮人8割日本人2割位で借金したり騙されたりして来た人がいたらしい。当然劣悪な環境だったのであろうけど、終戦の日の夜には、タコ部屋の監督してた人は家族もろとも姿を消したと。


 あっという間に夜逃げしたらしいです。そして解放された朝鮮人労働者が、市内で略奪して歩いてたと。乱暴される事は無かったけど、何処そこの時計屋さんは全部時計取られたとか、どこそこの米屋さんでは何々と、本当に詳細に記憶されてました。


 そして一緒に解放された日本人労働者も朝鮮人に混じって略奪してたらしいですが、「お前!日本人だろ!」とたちまち袋叩きにあって、警察に引き渡されたと。負け戦は本当に嫌なもんです。その後9月ぐらいに戦争捕虜移送の為、進駐軍がきて市内は沈静化したそうで。


 そんな混乱の中で、タコ部屋の人達が監視付きで市内に買い出しに来た時に、色々オマケをしてあげてた商店があったそうで、そこの商店には朝鮮人が寝ずの番をしながら、同じ朝鮮人からの略奪から守ってくれてたと。ちなみにそこの商店は過疎化の中で今も商売してる数少ないお店らしい。


 そんな感じで、1時間以上も貴重なお話しをお聞かせ頂いた訳で。奥様が帰り際に、主人が私も知らない事をこんなに話したのは初めて…とおっしゃっていました。雪解けしたら、噂だけだった収容所の跡地に行ってみようと思う。


 長文連投ですが、生き残りに方々の体験談をお裾分け。


 あ、ちなみにお客さんの親父さんは国民義勇戦闘隊に招集されて、現地で武装解除投降。シベリアに送られる事なく、現地で半軟禁みたいな状態で、3年後に帰還したそうです。苦労はなされましたが、戦没者はいなかったと言う話でした。