「身を固める」というのは、それまでの「身」がふわふわして不定形なもの、「若い衆」時代であるという認識を前提としとったわけで、な。
世間に世帯持ちとなって生きてゆく段階になること、地縁血縁に世帯として責任ある立場になること、でもあったんだわな。
逆に言うと、そのように「固める」ことをまわりからも含めて意識的にしないと、「若い衆」のまんま、世間の裡での「一人前」としての輪郭があやふやなままでもあり得たわけで、な。
どこのどういう世間で、どう生きてゆくのか、今風に言えば「選択肢」が縮まってゆき「落ち着くところに落ち着く」という段階。「そういうもの」のままでもそうなれればいいが、そうでない場合はまわりから「身を固めさせる」≒逃げられないようにする≒選択肢をなくさせる≒この世間で生きるようにする、もあったわな。
子どもが親の知らない別の世間で生きてゆくことが常態となってゆくのもまた「都市化」「近代化」でもあったわけだが、それ以前でも「あれにはあれの世間がある」という認識自体は、人間のみならずイキモノ全般、森羅万象に対してゆるく共有はされとったのが本邦常民一般「そういうもの」だったらしく。