社会の底に穴が・メモ

 自分を真面目で善良と称する人間、要するに『我々はニンジャにしてはかなり控えめで邪悪ではない方だ!』 だよなとは思うけど、自分は真面目で善良なのに報われていない!て人間を邪険に扱ったり、お前は真面目でも善良でもないって指摘してもどんどん社会は悪くなりそうだなとも思いはするんよな……


 真面目で善良であることに見返りを求める態度は既に打算的であり真面目さでも善良さでもないってのはそうかもしれんけど、だからって「真面目さや善良さを評価してくれ」と訴える人間に「真面目さや善良さは評価の対象ではない」て返すの、社会の釜の底に穴開けるような所業だと思うんです。。。


 もうこないだっから阿呆みたいに繰り返し言ってる話で俺もいい加減痴呆にでもかかった気分なんだけど、そう返すしかないような話が流れてくるので何度でも繰り返し主張するしかないんよな。。。社会を支える真面目さや善良さはやはりなんらかの形で評価や見返りを用意していくべきですよ。。。


 まあもう多少の見返りでどうにかなるような状態じゃないよな。多分。これから長い期間をかけて我々は社会の底にでかい大穴をあけちまったんだ、それは取り返しのつかないことだったんだということをほぞ噛み締めながら確かめてくことになりそう。ペナントレースはもう終わり、あとは消化試合の時間だ。

 「まじめ」や「善良」、「誠実」や「無難」(これは昨今若い衆世代が最も親しみを感じる単語ではあるらしく)といった類が、それ自体あたりまえに成り立つものでもなく、何らかの対価や見返りといった「実利」を求めてしまうものになってしまった経緯、というのもすでに「歴史」的過程としてあるのだろう、と。

 とは言え、それをあからさまに要求することにはまだどこか躊躇や歯止めがかかってもいるらしく、そのへんはこれまでの本邦ポンニチ世間一般その他おおぜい的心性のある核心部分がまだ揺曳しているということか。「実利」をそのものとして当然のように淡々と要求すること、についての習い性は未だ共有されるまで至っていないらしく。

 自分が「まじめ」で「善良」で「誠実」で「無難」であること、は特に努力して研鑽して切磋琢磨の果てにそうなっているというよりも、「そういうもの」としてあたりまえの枠内にかなりの程度自然にそうしている結果である、という認識。でもそれは同時に、自分だけでもなく、まわりを見回してみれば世の中の多数派、それこそその他おおぜいを律している「常識」的な範疇でもあるらしいという認識も、また。その程度に自分もその他おおぜいであり、「常識」的な範疇の裡に日々生きているということの認識が、必然的にある種の安心感や薄い諦念などと共に。

 「その他おおぜい」の「常民」であることについての自覚と、その自覚にそのものとして安住して眠りこませることのできなくなってもいるらしい「自分」という自意識のありよう。

 「マジメ」で「善良」で「誠実」で「無難」であること、を黙って見ていてそれ自体として評価してくれる世間の側の視線を意識できなくなっている現在。そのような世間の視線を信頼できなくなっている、という意味あいも含めて。それは、他でもない自分自身が自分以外のそのような「マジメ」で「善良」で「誠実」で「無難」に対して、「そういうもの」として肯定し評価する枠組みをすでに確信と共に持ち合わせることができなくなっている、そういう不安や落ち着かなさの類などと併せ技になって、いまどきの「自分」の裡にくぐもっているもののような気がする。