ポスモ/ニューアカと自然主義・メモ

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 「自己を「自然」の代表者かそれに近いものと見、これによって他人や社会の陥っている不自然の中から「自然」を探し出し掘り出す可能性を自負した以上、自分以上に興味ある対象はなくなり、ここにわが国自然主義特有の一種強烈なナルシシズムが誕生したのです。」

 本邦ポスモ/ニューアカとそこにハマった自意識の群れの七転八倒は、往年の自然主義のスカの再来に過ぎなかったかも知れん件。

 「作家はその内面の理想にはまだ「至らぬところ」があるにせよ、外部の社会に向かっては他の誰より誠実に「自然」を所有すべく努力している自信を持って対せたので、そういう「作家修業」に従っている限り彼は人類の代表者であり、彼自身にとっても最も真剣な興味の対象でもあったのです。」

 「思想」「ポスモ」「フェミニズム」(その他随意)こそ彼等にとって「自然」に達する第一義の道であり、彼等は不自然な社会に棲むその他おおぜい俗人に代わって、そういう「修業」を真剣に励んでいたというわけです。

 「彼等はすでに典型たるに価する「意味」を持つ人文が、自然から彼自身という形で与えられている以上、典型もそれを活かす環境も自分の手で造り出す必要を認めなかった」

 「おはなし」≒仮構のつくりものとしての「学術的真実」という留保をすっ飛ばした「ガクモン」「アカデミア」至上主義。

 「「真実性」をあらかじめ「事実」によって支えられたリアリズムの技法が、それが本来必要とした「思想や判断力」から解放されるにつれ、もっぱら作家の感性の世界における印象の羅列に変じてゆき、そのようなものがいくらでも精密化され細緻になる得るのは見やすい道理でした。」

 「彼等の創作はみな修業の記録でしたが、彼等にとっての「自己」と「文学」と「自然」はほぼ同一視されたので、作家自身の感性の動きをできるだけ精細に再現することが「自然」の表現であり、「文学」の「第一義」になったのです。」

 ブンガク化、あるいは私小説化してゆく本邦シャカイガクの必然……ある意味トーキョーエリジウムの発生地点。
 換骨奪胎、キーとなる言葉やもの言いを置き換えて書き換えるならば、たとえば以下、このような。

 「事実と仮構の真実の混同、表現の「実際」への依存が、記号や表象に所有された「意識の高い」人間特有なナルシシズムと結びついた時、彼等の描く自画像を彼等のような生活を「実際」に経験した者でなければ理解できぬものに歪めて行ったのは当然でした。」

 「彼等のような生活を「実際」に生きる者は、彼等のように「意識高い」記号や表象に憑かれた同時代の勝ち組か、彼等と同じ「意識高い」思想の影響を蒙ったトーキョーエリジウム的空間の中の人がた以外にはありません。」

*1:読書ノート、ないしはメモとしても。