承)場所は大手メーカー、フレックスタイムを利用して朝6時ぐらいから出勤し日暮れ前に帰る50代以降の事実上必要ない(キーボードを一本指で打つような)社員が大勢いる。しかも定年延長が決まってそいつらさらに居残ることが決まったので嫌になって自分らが辞めた。そういう記事ね。
— bibibi (@burubur56030897) 2019年11月14日
ひっかかるのは、そいつら別に職権で仕事に口出ししたり同じチームで足引っ張ってるわけでもない人達であること。つまり直接迷惑かけられてるわけではないが(経営者でも管理職でもないのに)ゴクツブシにも給料が払われるという事実だけで、もう一緒には居たくないという憎悪の矛先が向いていること。
彼らのクビを切ったところで給料が上がる可能性は殆どないだろうけど、それでも「使えない奴」が目に入るだけで耐えられないまでに憎悪がヒートアップしていく。おそらく世代的なルサンチマンがあるのだろうが、この構造は危険を孕んでますよ。「さくらを見る会」のあいつらだけ税金で飲み食いしてズルいという、まあ些細で素朴だけど抜き差し難い感情にも似て。
まあ、今どき窓際族を抱えてるなんて良い会社だと思う感性のほうが外れ値で、「ひとりひとりが経営者感覚を持て」ってネオリベな理念の方にシンパシー集まるのが世情ってもんでしょうが、ただその思想に労働者サイドへの恩恵はまるでないよね、経営者は否定するがこの20年でまるでないことは実証された。使えない奴や醜い者をできれば視界から消したいというのは、それこそナチのレニ・リーフェンシュタール的な十全性への賛美ってものだろう。だが怖いのは若けりゃそう思うのはわりと自然だってことだ。
社員に「経営者感覚」を持つことを奨励するようになったのはさて、いつ頃からのことだっただろうか。
言われたことをやって給料貰えればいい、という受身の態度で仕事しているだけでは、もうこれ以上の「成長」は望めない、ひとりひとりが「経営者感覚」で仕事をしてもらわないといけない――まあ、ざっとそういう理路で言われるようになったことだったとは思うが、じゃあそれが何のためか、というと、所属しているその「会社」なり組織のためであり、それが「成長」することは所属しているひとりひとりの社員にとっても良い結果が生まれる(はず)、という前提は、当時まだそれほど疑われていなかったということになるのだろう。
「経営者」≒雇用者、と「労働者」≒被雇用者の立場の違い、といったようなことは、そこでは当然なかったことにされている。これはまあ、本邦労働社会の習い性でもあるから改めて論ったところで仕方ないようなものだが、ただ、それでもなお、「個」と「全体」、あるいは「私」と「公」とまで広げてもいいだろうが、いずれそういう双方の関係、現実の成り立ちについての習い性が本質的に疑われなかった状況での話、であることがとりあえずのポイントなのだろう、と思う。
これは、「相手の立場を思いやる」といった、本邦ポンニチ原住民の特徴とも言われてきている徳目にも通じる感覚でもあるだろう。「お互いさま」でもいい。こういう「経営者感覚」を持つことを割とすんなり「ああ、そういうものかもしれんな」程度で受け入れられた、その前提には未だ会社なり組織なり、自分が属している現実に対する帰属意識というか、どこかでそれに支えられ、生かされてもいるというある種の信頼感が、まだ当たり前にあり得たということでもあるだろう。
だが、そういう当たり前は、すでに大きく揺らいでいる。
多少の無理をしても、局面としては損な役回りに甘んじることになっても、でもどこかで全体としては帳尻はあってくれるはず、自分のこの不利この不利益もいずれどこかの時点で「報われる」だろう、という民間信仰めいた信心が信頼感として持てた時代はもう過ぎた。それは個々の職場や現場におけるだけでなく、社会や国といった、ふだんそれほど意識しないままやり過すことのできていた大きな現実に対してまでも、漠然とした不安や不信感として共有されるようになってきている世間の気分として現われている。ロスジェネ氷河期などと呼ばれるのが当たり前になった世代性にしても、そのような最も大きなところでの社会や国に対する不安や不信感によって増幅されたやりきれなさが、世代間を「分断」を促進するエンジンになっている。
この問題の本質は、大手のボンクラ爺社員がクビになるだけでは済まず、生産力のない人たちへの過剰なバッシングにあっさり雪崩れ込むことですよ。 pic.twitter.com/0bFoxjsfE2
— bibibi (@burubur56030897) 2019年11月14日
上級国民デマなんかあっさり信じ込むところからして、野党サイドにこの件で期待できることなどなにもないしな。そもそも、令和元年時点でメーカーにキーボードもまともに打てない現場労務者でない50代の正社員が窓際で大勢養われているって事実関係からして疑わねばならない話だよな。朝日新聞だけに。
何かわからないけれども、大きな現実に支えられて生きている――そういう素朴な信頼感が世間から失われてきている。それは信心や信仰めいた領域にどこかで関わってもくるのだろうが、しかしそこまで明確なカタチをとらないまでも、本邦常民間では「そういうもの」として共有されてきていた「意識されざる歴史」も確かにあったはずだ。たとえば、helpless という英文脈でのもの言いに込められてきているだろう救いのなさ、寄る辺なさの表現が本邦日本語を母語とする環境ではさて、どのように表現されてきていたのだろう。