「読む」の調律のために・雑感

 「政治」と「思想」の間の絶望的とも言える距離。サークル村界隈から水俣病訴訟の周辺など、それら「政治」に傾いた「運動」の現場の見聞、体験などが、凡百のそれら「運動論」の類とは全く異なる水準まで蒸留された「おりる」の視線の凄みと、ある種透徹した索漠さと共に。

 「思想」や「歴史」に合焦してゆく際の高度というか、「地元」「地域」の間尺に即した最適な高度の限界以上には飛翔しない、という方法的決断と決意。言葉本来の意味での「民俗学的縮尺」(ヘンな言い方だがとりあえず)の身体化。かの赤松啓介翁の「ムラによって違いますわぁ」との凄みとの通底なども。

 紙の資料、文字・活字で記されたそれらのものも、「地元」「地域」との関係でどこまでの高度に置いて「読む」のか、それによって読み取られる中身やその意味も大きく変わるらしいこと。そして、それはおそらく文字・活字の媒体だけのことでもないかも知れないこと。

 「地元」「地域」との関係での高度というのは、別の角度から言うならたとえば身の丈、おのれの日々暮らし棲息している否応なしの「関係」とそれらを介して浮び上がる「場」をまずどこまで自覚的に対象化できているか、その上で方法の水準にも還元できているか、という前提に規定されるものらしく。