ネトウヨ的なるもの、の通俗化

 たとえば幸福の科学やれいわ太郎界隈、N国あたりまで漠然と「ネトウヨ的表象」を取り込んで「政治」にコミットしてきているわけで、近年は。そのへんまとめて「(苦笑)」から「m9(^Д^)プギャー」で片づける「良識」「正しさ」というのも、別に論理的に詰められたわけでもなく「そういうもの」として何となくあるわけで。その「そういうもの」として片づけるハコの中に「ネトウヨ」も当然、放り込んだままにされてきとるところはあるわけで、良し悪し別にして。

 で、ならばその「そういうもの」は果してどこまでそれほどまでに自明の「正しさ」として、〈いま・ここ〉の情報環境と言語空間において「効き」がまだ確かにあるものなのかどうか、というあたりの再確認が必要なんだと思うんですが。そういう留保なり立ち止まりなり「さえ」すでにどうでもいいものにされるくらい、それら「そういうもの」をめぐる「速度」が加速されたまま制御きかなくなっている印象が、こちとらなど「おりた」目線からは強くあります、近年特に。