「モテる」ことと「仲間を増やす」こと・メモ

 ネットが主戦場になると、ハイスペでモテるものはさらに、そうでないものは全くモテなくなりますからね。マッチングアプリ、最初はゲイの世界で流行ったのですが、ゲイの世界こそ見た目重視でブサイクはモテないそうです。アプリではそれが顕著でいずれノンケもそうなるよ!って言ってた人いました。


 モテるモテないは、対異性だけでなくオンラインサロンやSNSのフォロワー獲得などの自己顕示欲とか承認欲求の実現と同質な気がします。性欲をより抽象的に捉えて「仲間を増やす」ことと考えると子孫に限らずフォロワーも対象かなと。SNSで必要以上にコンプレックスを抱える人が増えた気もしますが。


 今、モテなければ学業、スポーツに秀でればいい、稼いで金持ちになればいいという出口のないループに陥った子羊たちは安易にオンラインサロンやマルチに救いを求める…。彼らはビジネスだから弱者からは巻き上げられるだけ巻き上げる。そして自己評価の低い人間が量産という負のループに。

 「モテ/非モテ」という区分が、こちとら老害化石脳世代の想像する以上に、いまどき若い衆世代の、殊にオトコ衆にとっては、あたかもあらかじめ定められた動かしがたいこの世の規範のように実装されているらしい、ということは、ここ30年ほどの経緯を自分ごとと引き合わせながら考えても、一段と容易ならざる事態にまで煮詰まってきているようには感じる。

 それは「スペック」などのもの言いとセットで、まさにかつて80年代状況において言われたような「カタログ化」の認識枠組みを下地として、ますます濃密化させられてきているらしいことも、概略予測できる。とは言え、その間にweb環境の伸展と、それらに手もと足もとで自在に、24時間体制で接続できる情報環境の普遍化が介在したことで、さらに一段とこじれた様相を呈しているということも含めて、「見てくれ」と内実の組み合わせられ方の変貌、あるいは社会的存在としての「個」のあり方の転変として、より深刻な〈いま・ここ〉の問題となってきているらしい。

 それこそ例の「承認欲求」などというもの言いとも関わってくるのだろうが、「社会」とは「見る/見られる」視線の交錯する「関係」と「場」の織物として成り立っているのだとしたら、そのはじめの一歩であるはずの「自分」という「個」がどのような見られ方をしているのか、という原点の定められ方からして、少し前までのweb以前、それこそ日常生活世界の成り立ちが未だ牧歌的だった頃の作法とは異なるものになってきているのだろう。もちろん、と同時に、そのような「自分」が世界を、身の回りの現実をどのような見方をしているのか、ということと共に。

 「モテる」のだから基本は異性からの、ゆるく性的な意味あいも含めての見られ方についてのことになってくる。「見る/見られる」のは「関係」だから、そういう「関係」を築いてゆけるだけの条件が備わっていないことには、性的であることもまた、うまく発見されず、見出されもせず、それこそ「なかったこと」にされてゆくしかないのだろう、いまどきの若い衆世代の日常生活世界においては。

 いわゆるヘテロの性愛、それ前提の「モテる」のたてつけからあらかじめ疎外されてしまうような存在形態が骨がらみになってしまうと、そうでない性的領域のありかたを模索するようにもなってゆく。お腐れサマであれBLであれ、あるいは「草食系」とある時期から揶揄的に語られてきているような非ヘテロな性的領域のあらわれ方というのも、実は多くの場合、生まれながらに生得的なものなどでもなく、疎外からそういう方向に活路を見出してゆくようになったことの必然みたいなところは、あるように感じている。