氷河期ロスジェネの「不人情」について


 氷河期ロスジェネ世代の「勝ち組」のネオリベ原理主義的になってゆくのって、熾烈な競争に生き残ってきた経験からくる身の守り方ではあるんだとおも。殊に学歴その他で優越性持ってたりした分、なんでこの自分がこんな目に……的鬱屈は傍目よりずっと発酵して拗れとる可能性が高いような気がする。

 一般的な労働者とは意味も文脈もまた違うんだろうが、大綱化以降のポスドク野良博士で非常勤渡世や任期付き縛りをくぐりぬけて何とか片隅のポストにありついたような人がたの発想や身のこなしなどを見とると、そういう当人がたのおそらく自覚していない「闇」の深さを切実に感じることは多い。

 「連帯」とか「共助」とか、いずれそういうものが必要な局面でも、そういう人がたは腰が上がりにくい。いわゆる冷笑的ならまだしも、それらと逆の動きを平然として臆面無く保身に走ったりする。それに対して旧来のリクツや倫理道徳義理人情系もの言いで説得しようとすることはほぼ無意味で無力らしい。

 保身やわが身の安全が最優先でやってこざるを得なかった(らしい)分、自分のいる環境を少しはマシにしてゆく、とかそういう方向への営みに自分のリソースを割くことの意味や価値、さらにはその中長期的な得失や損得も(゚Д゚)ハァ?でしかないらしく。「中長期」というターム自体が(゚⊿゚)シラネに。

 「その日暮らし」の視野狭窄が常態になっとるようなところがある、かつてとは違う意味で。そんな状況で「労働組合」だの何だの、維持してゆけるはずもないわなぁ、と。

 「おたくの不人情」ってのはずっと昔から指摘してきとるけれども、昨今のこういう「不人情」(ととりあえず言うとく)はまた別の背景、異なる内実に支えられてのもの、という気がする。