むかしより今は「民度があがっている」?

 かつてより今の方が「治安が良くなっている」「民度があがっている」的な認識はかなり自明の感覚として共有されているらしく、ある時期以降の比較的若い衆世代の間では。

 それは自分たち自身の感覚や認識としても、という意味らしく、それを前提に「年寄り」「おっさん」「老害」らが彼らのものさしで振る舞うことは、そんな自分たちにとって迷惑以外でもないし、当然それは「治安」「民度」などの一般的尺度からしても「時代遅れ」でいずれ死滅してゆくのが当然、と。

 いわゆる「団塊」批判(それが穏当なものかどうかは別にして)やフェミ系もの言い、あるいはナショナリズムについてなども含めて、大きな認識枠組みとしては基本的に共通しているらしく。つまり「自分たちの感覚や認識」以外は当然「時代遅れ」で死滅してゆくもの、という自明な正しさ依拠のありさま。

 表現されている思想なり立ち位置なりがリベラル系であれ保守系であれ、それら表層の現われ方とは別に、基本的な認識のありようとしては同じこと、つまり「自分(たち)の自明の感覚や認識」以外については全く別のもの、「同情」その他の必要など皆目感じない「合理性」で裁断されている世界観&価値観。

 いわゆるネオリベ緊縮自己責任系の自意識を根底で規定されている世界観&価値観、というのはこういうもので、で、しつこいようだがそれは表面的な言説や思想表明とは「関係なく」、そもそもの生身の了見が「そういうもの」というあたりで決定的に、かつ無自覚に縛られているらしく。

 これも昔からしつこく言い続けとる「おたくの不人情」問題とおそらく通じてくるお題ではあると思う。

 「自己責任」をあっさり口にする手合いにとってのその「自己責任」とは、自分(たち)のような「自己」≒自意識にとってだけ有効な「責任」という意味でしかないらしいんだが、でもそのへんの内実を自省して留保するようなことも「非合理的」なので初手から考慮外になっているという、な……

 以前の弊社若い衆がラノベについて考えていた際、東~大塚ラインの言説が全て覆っているラノベ批評空間に「なんでこうなってんですか?」「これ以外これ以前というのはなかったんですか?」という至極素朴でまっとうな問いを出してきたんだが、おそらくそのへんのお題とも関わってくる不自由や閉塞かと。