現実認識の解像度の違いと情報環境・雑感

 夢で議論をしていたこと。

 これまでの自分たちが習ってきたような社会科学なり人文学なりの「モデル」での、社会や文化といった図式は、言わば解像度が当時の情報環境なりのモデルで、だからある意味すっきり図式化されていて、シンプルにわかりやすいものだったりした。

 でも、いまどきの若い衆世代があたりまえに育ってきたような情報環境では、そのかつてのモデルではのっぺりひとくくりにされていて、細かいところまでは見えなかったような細部までくっきり映し出すようになっているので、個々のディテールや細かな具体像などがいちいち全部その大きなモデルの裡に包摂されていることまでが「見えて」しまっているのではないか。

 たとえて言えば、かつての技術で撮影した木星の写真と、いまの技術でのそれとの「違い」とか、そういう感じ。

 現実を認識する枠組みが、その時代の情報環境に規定されること、というのはあり得るとはずっと思っていて、いまどき若い衆世代のそういう枠組みが、映像的な解像度が高くなっているらしいことは、自分たち旧世代のそれのフラットな図式的な解像度というか理解の仕方と、ある意味本質的に別なところがあるのかもしれない、という疑念も根深くある。若い世代が「優秀」という言説にうなずきながらも、でも同時に、そうでもないのかもしれない、という歯止めがしっかりかかってしまう理由のひとつ。

 議論をしていた相手が、団塊世代あたりなのか、とにかく年上の老教授という感じで、おそらく国立大の理科系出自の、でも専門的には人文社会系とまたいだところの隅っこにいるような御仁だった。場所は大学か何かのコモンズ的な空間。あるいはカフェテリアみたいなところで。