自分の過去からブーメランが刺さるんだけど、学生でフォロワー多くなるとキツいもんがあるな。SNSはいやおうなしに「未熟で愚かな時分」を可視化されてしまうんで、なるはやでバチっと躾けられるタイミングが来ないと厳しい感じになり、その機会は今後ますます乏しくなっていきそうだ。
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー)🌤️ (@terrakei07) 2019年6月10日
えらてん師匠に最後絡んでた大学生に必要なのはお勉強とかではなくて、「他罰性を叱ってくれるちゃんとした大人」なんだけど、そういうのはもうハラスメントとして回収されるのでなすがままに怪物になるルートが保証されてそうでキツいな。他人事だからどうでもいいっちゃいいんだが。
立場が偉くなると周囲に叱ってくれる人がいなくなってオッサンはバグるけど、これからは大学生(とくに若い女子)もかなり偉そうなオッサン同様「諫めたり、叱ったりしてくれる人」が乏しくなってバグっていくのだろうな。まあ、これが「暴力もなく、不愉快な他人のかかわりも拒否できる、平和で安全で快適で人権意識の高い社会」ということなのだろうけれども。
他罰性が高まってヤバくなってる人間に必要なのは、他罰性を叱ってくれる大人なのだけど、他罰性がヤバいヤツを叱ると法的なリスクとかが発生するので、周囲の良識ある大人はスーッと見限っていなくなり、「そうだね君は悪くないね辛かったね間違ってないよ」と口車に載せるヤバい奴だけが残る。他罰性がヤバい奴はヤバい奴同士でシナジーを発揮してもっとヤバいことになるか、口車に載せてきた奴に人間打ち上げ花火みたいな消費のされ方をして終わる。
叱ったり諫めたりしてくれる大人がいなくてもなんとかなるのは一握りの超絶有能だけなので、たいていの人にとって叱られるフェーズを回避すると他罰性だけがやたら強い無能みたいな感じになって人生の難度が上昇していきます。
「叱られる」というもの言いの中には、先輩なり上司なりオトナなり、いずれ今の自分よりも何らかの意味や文脈において「上」の立場、指導する/される関係にあるという前提が含まれているはずで、それはいわゆる「タテ社会の人間関係」における集団や組織の秩序維持と安定のための日常的な関係のあり方のある局面、ということになるのだろう。
橋本治などが使ってたような意味での「教育」の内実などにも、これはからんでくるのだと思う。先輩と後輩、オトナとコドモ、親と子、といった関係で、「上」の立場の者が「下」の立場の者を「指導」する、そうしなければならないという規範の領域も含めてのある「そういうもの」感。
けれども、それと「個」であること、そのような「個」のひとりひとりにそれぞれの内面や気持ち、思惑といった領分もあることは、別に対立項としてだけでなく、それもまた「そういうもの」として認められていたのだろうと思う。認められてはいたし、それはまさに「自由」な部分でもあったのだろうが、同時にそれは属している集団や組織を動かしてゆく上では優先されるべきものではない、その程度にまた別の「そういうもの」に律されてもいたらしい。
「叱る/叱られる」という言い方が限定的に過ぎるのなら、「指導する」「導く」程度にゆるめてもいいだろう。そうする側には何か確信がなければならない。そのように指導するには理由も根拠もあるし、そうした結果もまた、集団や組織にとって、ひいてはそこに属して生きているその「個」にとっても共に望ましいものになるはずだ――ざっとそういう確信が共有されていないことには、この「叱る/叱られる」関係はうまく現実に機能してゆかない。
けれども昨今、これが壊れつつあるのだとしたら、ひとつにはその「叱る」側、指導し導く側にそのような確信が持てなくなっていることと、もうひとつその「叱る」側にも「叱られる」側と同じような「個」が、以前よりもずっと「そういうもの」として前景化してきていることがあるのだと思う。「叱る」ことで予測される反発や反感、嫌悪感といったものを忌避したい、という、「叱られる」側がなるべく叱られないように忌避したいのと同じような機制が働くようになっているらしい。
「嫌われたくない」、嫌われることによって生じるだろう不利益や不都合の類に、この自分の「個」は耐えられない。できるならそれも忌避しておきたい。なぜなら、そんな目にあっても「トクがない」し、昔のように「そういうもの」でやり過ごしてゆくような確信もまた、すでにどうやら稀薄になっている。だったら、なるべくそんな局面に陥ることを避けておくのが「合理的」だ――ざっとそんな流れで、上司も先輩もオトナも、そして親も、みんな「叱る」ことをしなくなってきた。当然、「叱られる」側もそういう体験をしなくなってきた。その結果、上も下も、上司も部下も、オトナもコドモも、親も子も、共に生きている「タテ社会の人間関係」の集団なり組織、ひいては社会がさて、どうなってきたのか。
「多様性」や「斜めの繋がり」など、それらの現在を肯定的にとらえた上で、にわかに「新しい」「進んだ」人間関係の構築を称揚するもの言いもいくつも出てきている。いわゆるジェンダーの絡む問題なども、それらの文脈に得手勝手に組み込まれているところもある。それまでの「そういうもの」から「自由」になった「個」が横並びに、フラットに、まさに等価に存在を保証され、その上で初めて関係を結んでゆくような漠然としたイメージで、新たな集団や組織、ひいては社会像が幻視されるようになってきている。
だが、そのようなイメージはどのようにこの具体的な現実、生身の個体としての「個」が日々間断なく関係を結びながら生き延びてゆかねばならないこの否応ない〈リアル〉の地平に、確かな実態を実らせてゆくことができるのか、というあたりのことについては、例によってそれらのイメージとそれを支えているもの言い群から引き出すことはできていない。*2
*1:「●●ハラスメント」という武器が世間一般その他おおぜいレベルに広く与えられてしまった後のこと、という側面も間違いなくあるし、それはまた「個人情報」「プライバシー」といったもの言いと共に「個」の内実を自ら好んでブラック・ボックス化して、自分自身もまた正対しなくていいようにしてしまってきたことなどとも絡んでくるはずなのだが、それらについてはここではひとまず触れていない。
*2:「ポエム」と揶揄されるようになってきているある種のもの言いやコピーライティング的な定型、あるいは個別具体と紐付けられていない、だからその分大文字で多方向に使い回せるようにも見える文章作法の類と、それらが「学校」的空間を介して「正解」化させられている情報環境のありようが、ここでもまた大きな眼前の問いとして立ち上がってくる。