年代論世代論、の有効性、およびその是非について

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 80年代論みたいなものもちらほら出回り始めてるような昨今、しかし、かつてのような年代論や世代論の持っていた厚みや立体感みたいなものはなぜか稀薄な印象が強い。それらの議論へ向かうのには「なつかしいあの頃」というノスタルジーが駆動力になっているのは今も昔も変わらないとしても、そのノスタルジーのありようがもうどうしようもなく「私」にだけ紐付けられたものになっていて、しかもその「私」がそのまま「時代」に、時に「世代」に短絡して直結しているらしく。何のことはない、ここでもあの「セカイ系」的短絡の構造ありあり。

 TwitterのTLに流れてきたこんな断片。「平成」への振り返り、もまたそろそろあちこちで取り沙汰される時節柄。

 なんとなくだけども、平成が政治的、社会的な変化であまり明るい時代ではないが、文化的には豊かな部分もあった、といわれるのは50年くらい先になるという気がしてんだよね。たぶん次の世紀の半ばまで「問題を後世に押し付けた無能な時代」扱いされそうな予感して。

 この「政治的、社会的な変化であまり明るい時代ではないが、文化的には豊かな部分も」な「評価」の仕方は、おそらく大正時代に対するそれを想定している部分もあるような。平成≒大正時代?という枠組みを補助線とした「わかる」への傾き、が何となくにせよ、あるのかどうか。平成デモクラシー?? いや、それはさすがにいろいろ無理筋のような気が。

 年代論や世代論、時代論といった切り口での語り方/語られ方というのは、近年、まずそれを否定的にとらえるモードが最初に立ち上がるらしい。「科学」「学問」的な枠組みに対する自明の信頼が、それに対する内実含めた信頼感に必ずしも裏打ちされていないにも関わらず、いや、だからこそなのかも知れないが、どこか過剰に前のめりに共有されるようになっている。「エビデンス」や「ソース」といったカタカナもの言いの、これまた必要以上に重さをうっかり背負わされてしまう不幸などと共に。ムダにマジメに窮屈になってきているらしい日本語環境における〈知〉の現在形のやりきれなさ。

 けれども、年代や世代、時代といった切り口で語ろうとするその手癖の先に想定されているのは、個々の思惑や理由などを超えたところでは、おそらくことの本質として〈いま・ここ〉であり、それら〈いま・ここ〉≒「現在」から発する地続きの社会/文化/歴史を身の丈のことばやもの言いで捕捉し、できるだけ穏当で身の丈の間尺で「わかる」に向かいたいという情熱、さらには向かうべき必然を伴うそのような欲望の導く何ものか、なのではないか。

 「カラッポの80年代」の再評価がこれからやからな。おまえら、たけしは暴言だけ、とんねるずは学生の悪ふざけ、ダウンタウンはちんぴらの立ち話、桑田はなに歌ってるのか聴き取れない、RCはぶさいくな顔に化粧して頭おかしい、そういった年寄の戯れ言を一つ一つねじ伏せていった80年代をからっぽだなんて言うんじゃないよ。

 80年代状況に対するこのような見直し、振り返りが改めてゆっくり前景化し始めているらしいのは、それらを同時代として生きた世代がすでにざっくり50代、言い換えれば高度経済成長ネイティヴ第一世代の世代的共通体験の原風景が、平成が終わるという切れ目意識が強調される今この時点にきてもう一度、これまでと異なる文脈で「わかる」に向かいたいという欲望がにじみ出し始めていることでもあるらしい。

 たとえばサザンやRCサクセションが夜ヒットやザ・ベストテンで「してはいけないこと」を叩き壊していった経緯なんか絶対に無にしていい話じゃなくてだな。

 とりあえず異議はない。ないが、しかしその同時代体験をきちんと「社会/文化/歴史」の相においてかたちにし、何らかの記録として意味あるものにして共有してゆく手続きは、平成をくぐってきたいまどきの日本語環境の〈知〉のありようのこの煮崩れ具合の内側からは、まず絶対に見えてくることはないだろう。

*1:世代/年代論の役に立つような形&文脈での再生については、年来のお題のひとつではあるけれども、本腰入れて論じてみるまでには現状〈いま・ここ〉での小さなハードルをいくつか整理してクリアしておく必要があるとも思うとるので、その意味での備忘録的に