「学問」を成り立たせていた「戦後/昭和後期」の情報環境、のこと

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 「学問」もまた、その時代の情報環境の内側でしか成り立たない、そういう面が否応なくあるらしいことを、ここにきて強く感じています、これまで以上に切実に、かつのっぴきならない同時代的問いとして。*2

 とは言え、ひとまず文科系、いわゆる人文社会系と言い換えてもいいでしょうが、そういう分野のこと。さらに言うまでもなく、日本語を母語とする環境において成り立ってきていたそのような分野、ということも、また含んでいます。つまり、日本語を介して行なわれるそのような文科系の「学問」のなりたちについて、ということになります。

 ざっくりとした見取り図だけでも先廻りして提示しておくならば、それら人文系の「学問」は、巷間思われていたような、あるいは当の「学問」世間の当事者として自他共に任じてきた人がたの了見の間尺で自明にそういうことになってきていたような、そんなある種の普遍、それこそ時と場合によっては「科学」とまで言挙げすらしていたような大きな背景を背負って屹立していたわけではなく、ある意味同時代の情報環境の内側でいくつかの条件つきでかろうじて成り立っていたような部分があったらしい、まずはそのことです。別な角度からほどいてゆくならば、それら人文系の営みの「学問」としての「正しさ」や「信頼性」といったものが、理科系自然科学に根ざした「科学」の「普遍」にしっかりと紐付けられていたわけでもなく、ある意味戦後の過程で現出された情報環境とそこに宿った読み手のリテラシーなどとの「関係」において相互的に宿っていたらしいことが、ここにきていよいよむき出しになってきたということでもある。そのような時代、そのような情況をすでにわれわれは生きていることについての自覚と認識を、まずは最前提として持とうとしなければならないらしい、少なくとも「学問」というもの言いの内実を今日的に、そして明日に向かって本当に開かれたものにしてゆくためには。

 日本語環境での人文社会系の「学問」というのは、実は学者研究者のコミュニティだけで、学会だの何だのと呼ばれる半径だけで成り立っていたわけではありません。一般書籍市場の、かつて「人文書」と呼ばれていたようなジャンルを中心とした本と活字の読み手らの「教養」と併せ技で支えられ、成り立っていました。けれどもそのことを、その恩恵も含めてうまく自覚しない、できないまま、ここ20年ばかりの間に一般書籍市場は実質煮崩れてゆきました。「新書」というパッケージの、商品としての形やありようは変わらなくてもその中身も市場のニーズもそれまでと違うものになってしまった本が「単行本」「単著」として平然とカウントされるようになった状況に象徴されるように、読み手の側のリテラシーとそれに附随する「教養」の下支えからなくなってきた分、「学問」はそれまでと比べれば本当にむき出しの通俗、ミもフタもない世間一般の視線や感覚と対峙しなければならなくなっています。

 おそらくそのような「通俗」自体、近年ここ20年ほどの情報環境の変移変遷の中では、良し悪し別にしてwebおよびwebに紐付けられた現実を介して対峙せにゃならんようになっているらしいのですが、そのこと自体未だによくわかっていない意識が平然と、かつ漠然とそこらに転がったままでいるのもまた、確かなようです。「学問」の「正しさ」だの「権威」だのもまたそういう情報環境との関係でかろうじて成り立っていたかも知れない、程度の自省もしない/できないまま、トンデモだのデンパだのポリコレだのいろんなレガシー化した得物振り回して「どうしてこの正しさにひれ伏さないんだぁ~」とやっているのですから、そりゃまぁ「学問」の、殊に人文社会系のそれに対する信頼などは地を払うようになるのも無理ないようなものです。

*1:おそらく何となくダラダラと続いてゆきそうなお題……

*2:「実学」称揚の風潮/空気に対するカウンターの足場がどうにも構築しきれない状況に対する観測ノートみたいな意味あいも含めて。