「文脈」の喪失、ないしは変質・メモ

 人間誰しも1日は24時間、1年365日で同じ条件で、能力の違いはあれど「読む」効率には上限があるわけで。

 とすると、一定の限られた分量の「情報」を「読む」介して取り入れるしかないのだとしたら、その中身内実がどんなものかによって〈知〉のありようにも情報環境との関数が考慮されるべきかと。

 「読む」も視覚介した情報摂取(この言い方好かんが)ではあるわけで。

 視覚の効率化(ヘンな言い方だが)のような事態がここ30年くらいの間の情報環境の変貌によって起こってきている可能性。しかも、それが割とシャレならん〈知〉の煮崩れの要因として。

 デジタイズされた「情報」がデフォになってゆくにつれて、「読む」と視覚の関係もまた変わってきている可能性。

 いわゆる映像系情報のように、文字/活字も「読む」のがいつしかあたりまえになってきているのかも。要検討。

 「文脈」の喪失、あるいは少なくとも変質、といった現われ方として。

 YouTuber系の動画・映像における「文脈」とは。

 これ駆使して脊髄反射してみせることが、アタマいいことの証明になる、と未だ信じとるんやで、こういう人がた。

 個々の事象やできごとにも必ず「文脈」はあるはずなんだが、それらとにかく一律全部すっ飛ばして「アイテム」「情報」「表象」「記号」{以下何でも)的に「処理」する/できる、という自明の前提になっとる情報環境で棲息されてきとらす人がた特有の症状。

 生身の人間からも、そういう意味での「文脈」が喪失される/できる、という感覚に支配されると、そりゃ「思考実験」だの「わかってやっている」だのも平然とやってのけられるだろうな。

 でも、identity って確か、そういう意味での「文脈」から生身の「個人」ってのは逃れられずあるしかないからこそ、あの「自己同一性」とかわけわからん訳され方されとったんでないん?

 昨日のおまえと今日のおまえが切断されとったらそれ、「分裂」だろ、常考