「おしゃべり」の射程距離といまどきの「世間」の作られ方

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 大企業において「無能」=存在価値ゼロなんてまだマシなんですよ。年間リース料800万円の出来の悪い置物みたいなもんなんだから。真に害悪で脅威なのはあまりの暇さと頭の悪さ故に自分で「しごと」を作って周りのまともな人間を巻き込み、生産性や士気を下げビジネスを妨害してくる「負能」人間。負能は実務に耐えないスキルと無駄に取ってしまった年齢故に総務でマネジメントをやらされるわけだが、例えばこんな行動をします。

・無駄に組織を再編成・改名する
・無駄に申請書や管理簿を増やす
・業務に支障が出るほど整理整頓にこだわる
・社員の服装を細かくチェックする
・標語を作らせる
・無駄にオフィスの模様替えをする
・誰も参加しない交流イベントを企画する
・他組織や社内システムへの苦情・嘆願を忖度して握りつぶす
・ビブスやら腕章やら謎のオリジナルグッズを作り始める
・会社のあちこちに啓発系ポスターを貼る
・メモリ4GBのPCを買う
・数百万する機材を買って満足する

 ちなみにこれ、よく言う「無能な働き者」(善意)とも違うんだよね。こいつは役に立たない・むしろ迷惑になっていることを理解しながらあえてやってるパターン。指示されたからとか点数かせぎとか。消極的な悪意。ミルグラム実験。そしてこういう人が嫌がる「しごと」をするやつは皮肉にも出世しやすい。

 本邦の「組織」「集団」がどのように機能不全になっているのか、その個々の症状、具体的な事例について、Twitterでは日々、各種業種業界現場を問わず報告されている。何のことはない職場のグチ、仕事場のボヤきのようなものであっても、そして普段はそれこそ仲間うち、同僚などの範囲で陰口として口頭で語られる程度のものであっても、いまどきの情報環境ではそれもまたデジタイズされた「情報」としてwebを介して共有されるようになる。いや、これは優劣というか前後の関係が逆なのかも知れない。それが最も切実で身近な話であればあるほど、声と耳を介した口頭のグチなどではなく、デバイスとweb環境介したデジタイズ「情報」として共有される傾向すら昨今はあるらしい。

 とある高校生たちに、彼らの部活の関係で1週間ほどつきあうことになった際、何てことはない世間話で、友だちとの「おしゃべり」をどのようにしているのか、といった話題になって、その際みな平然と「いちばん大事な話はLINEでやる」と言っていたのに衝撃を受けたのは、もう4、5年ほど前のこと。たとえ学校で日々顔を合わし、教室その他でそれこそキャッキャウフフではしゃいだりして実際に口頭でおしゃべりをしていても、いちばん身近で大事な話、たとえば彼氏彼女のことや親との関係のことなど悩みごとや相談ごとの類は、家へ帰ってから「LINEでやる」。その理由は「だって、学校でしゃべると誰が聞いてるかわからないもん」。そんなものLINEだってその仲間なら仲間うちが参加しているんだから同じことじゃないのか、と尋ねると、そういう時は話したい相手とだけ鍵かけてやるから安心できる、との返答だった。

 パーソナルな「関係」というのが、話し言葉を介した口頭の情報環境な生身の現実、日々の日常で作れなくなっているらしいこと。自分の最も切実で大事な話、パーソナルでプライベートな話題については過敏に制御したいという感覚が前提にあるのだろう、という程度までは推測できたけれども、それでもその生身の現実とweb環境の関係の転倒、言葉の媒体としての生身の声とデジタイズ「情報」の先後関係の逆転みたいな症状については素朴に衝撃を受けた。

 それってもしかして手紙のやりとりと似ているのかも、とも思った。友だち同士でもちょっとしたメモ程度みたいな形で、文字を介した「おしゃべり」的な関係というのはあったわけで、それは授業中に教師にわからぬようひそかに「まわす」メモ書きや断片が飛び交うようなことも含めて、ずいぶん前から「学校」におけるある種の「民俗」的な行為として存在している。*2 そのような制限された環境でのある種の「おしゃべり」の身振りは、それこそニコニコ動画の画面に横スクロールで流れてゆく「コメント」などにまでどこか連なっていると思っていて、それは言及対象となっている相手や存在には気づかれぬまま、ココロの中で勝手に思っていることを互いに共有する「関係」を構築することでもあるらしい。いわゆる「陰口」、具体的にはたとえば会社におけるOLたちの「給湯室でのトーク」などにも似ているけれども、しかしそれは大きく言えばその「場」での「民意」の編成、はっきりと表に見えにくいけれどもある程度の〈リアル〉を共有する「気分」や「空気」の醸成の現場でもあるはずで、そういう「ココロ/気分の共同体」とでも言うような領域が、具体的な生身の現実における「関係」や「場」とはひとまず別の、それらと切断されたweb介した空間において日々確実に、かつある意味生身の現実よりも切実なものとして編成されるようになっているらしいことは、本邦昨今の組織や集団、大きく言えばあの「世間」というもの言いの「民俗」レベル含めた手ざわりなどにまで連なってくるある種の〈リアル〉の変貌にまで関わってくる問いなのだろう、と。

 このtweetも、他のtweetを眼にしての二次的なつぶやきだったらしく、そういう意味では「関係」も「場」も共有していない「おしゃべり」、生身の現実なら自分の腹の裡、ココロの中で勝手に思ったり感じたりしたことにとどまっているはずの言葉が、デジタイズされた「情報」としてweb環境にだけ可視化され共有されている、ということになる。

 なお今回のツイートはこの事例を見たのが発端。まさに著しい生産性低下とモチベーション低下をもたらし、白い目で見られながらも点数稼ぎする胸糞系。

 某コムな通信会社、ついに各人のデスクに私物置くのを禁止して、違反したら定期見回りで摘発するようになったらしいよ。うける、何その管理社会。 フリーアドレスのためとかならまだ理解できるけど、そうじゃないよ。もう現場の人らはみんな辞めるべきだと思う。


 そしてダメな社員をクビにできない終身雇用の企業は人件費が固定費となり、頭数だけはたっぷりある状態になる。すると業務効率化や自動化が進まなくなる。自動化はコストとリスクを伴うが、暇なおじさんで人海戦術するのは「無償」だから。さらに合理化反対!とこいつらが効率化を妨害してくることも。

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*1:Twitterより。例によってだけれども、メモとしての感慨考察の部分は「気分」「空気」の情勢の微細な現場のからくりみたいなものと、昨今の情報環境との関係などについてになっている。

*2:「手紙まわし」とか呼び方はさまざまだけれども割と広汎にやられていたようで、半径身の丈で確認した限りでも戦後生まれ、高度経済成長期あたりに中学生高校生になっていたような世代あたりの、主に女性たちには「あ、やってたやってた」という反応が当たり前にあった。

*3:このへんともからんでくるお題、かと。 king-biscuitnotes.blogspot.com king-biscuitnotes.blogspot.com king-biscuitnotes.blogspot.com

*4:そして、後日こんなtweetもぶらさがった。