衣食住の公共化

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 衣食住のうち「食」は本邦、近年どんどん生活空間の外に担保させるようになってきていて、それこそコンビニやイオン的スーパーなどが食材ストックから調理済食品提供ターミナルになってきているのはこれ、政策的にそれなりに意図された上でのことなんだろうか。

 生活空間に「調理」とそれに伴う過程は必要なくなってきているわけで、少なくとも都市部単身型生活世帯にとっては。ミニマリストだの何だのの能書きにしてもあれ、そういう大きな構造的変化あっての能書きなんだろうが、そのへんもまた、どれくらい自覚されているんだろうか、ミニマリストで吹けあがっている界隈。そういう「合理化」が限度を超えて進行している現状と、残業含めたいわゆるブラック労働環境の遍在化などが関係ないわけないよね。

 ことは何も「食」だけでもないのは、「住」はカプセル化で15平米前後モジュールデフォ、「衣」もユニクロしまむら古着系で普段着はミニマム化、ただ、子どもとペットがからむ局面などにだけは以前の消費モードの箱庭化したみたいな商品が供給されているような印象が。ある意味、子どもやペットはそれら都市部単身型生活世帯にとってのオプション扱いみたいなもので、それを選択することでオプションの「消費」がついてくるという感じかも。ブライダル産業やマタニティ・ビジネス、ペット関連市場などが、生活全般にとってというよりも、それぞれの局面のほぼワンポイントにおいてはまわるようになっていることの背景なども含めて。

 「生活」の全体性はもうだいぶ前からこういう方向に分裂してきているわけで、「家庭」なども、それに伴って「衣食住」のそれぞれの局面で「個」の消費を行なってゆく上でのターミナルでしかなくなっている。個々の個体同士の出自来歴血縁などもまた、そのターミナルの上ではそれほど大きな意味は持たなくなっているわけで、そのような消費主体としての「個」の、たまたまの寄り合い以上ではないのがいまどきの本邦、少なくとも都市部単身型生活世帯の「消費」前提で見る限りでの「家庭」のありようなのだろう。

 だから当然、性にまつわる領域もまた、それら血縁に紐付いた個体の関係を再生産してゆくような意味を剥離されていて、それぞれが個別に「個」的に「処理」すべき問題に切り縮められている。いきおいそれらは「消費」と親縁性を増してこざるを得ないから、それら「処理」のための仕組みもまたターミナルとしての「家庭」の内側にまでなめらかに入り込んでくる。スマホタブレットなどのデバイスを介して提供されるさまざまな「性的」コンテンツは、そのためのとぎすまされた商品ということになる。

 4、5年前、ゼミの若い衆学生と共に「白いトレイ」*1を糸口にあれこれ、それら衣食住の公共化の現在を考えようとした時、「家庭」とそれ以外の間の敷居がなめらかに、それこそ自動ドアやエアカーテン程度の懸隔で、外部の市場とほぼシームレスにアクセスするようになってきている現状に改めて気づくようになっていったが、そのような社会的な環境としては「内/外」「家庭/市場」といった区別がなしくずしになくなってきている反面、個人個体の意識の上では、少なくとも「自分/自分以外」の区別だけにはことさらに敏感になってきているように感じるのは、前者が後者を規定しているということなんだろうか。
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 個々の「家庭」≒「(生活単位としての)世帯」がそれぞれ独立して「衣食住」を営むという前提が、より社会的な規模での合理化、効率化を推し進めてゆけば畢竟、社会主義的なコントロールの「システム」を想定するようになることで、住居環境的には集合住宅的なものやユニット化したカプセル住居的な方向になってゆくのは容易に推測できるわけで、実際、昨今の宿泊施設や単身者向けの住居環境はそのようになってきている。また、ハード面のみならずソフト面、社会的にそれら「世帯」を維持してゆく「衣食住」を支える「システム」自体をいじろうとするなら、それらを全部外化して社会的な「システム」に担保させてしまうことで、「住」は単に睡眠と休息をベースにした最小限の機能だけを個々に持たされるようになり、「食」は外食から安価な弁当や給食システム、「衣」も同様に安価な汎用性の高いファストファッション的なものに統合されてゆく。極めておおざっぱで雑な表現だが、これらの方向は概ねここ3~40年ほどの間、それこそ高度経済成長以降の本邦の社会の変化として看て取れることだろう。
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 社会の側に「衣食住」を担保させる、という発想は、集合住宅に附随する共同のキッチンや食堂の構想として前世紀の前半、大量生産大量消費を前提とした大衆社会化が世界にさきがけて進行し始めたアメリカなどから出現してきたことは、いわゆる「家政学」(本邦日本語環境で慣用的に言うところのそれとは少し文脈が異なるけれども)の来歴をひもといてもわかる。その意味では何も最近始まったことでもなければ、発想としても珍しいものではない。「近代」の深化進行に伴う必然なわけだが、しかしこれも、今やそこらのスーパーやモールのフードコートがある意味実質的に実現してしまっていることだし、ユニクロその他のファストファッションが普段着と部屋着(このもの言いも割と最近のような気がする)の区別をどんどんなくしていっていることなど、生活拠点としての「世帯」とそれを支える「システム」の関係は、本邦ではどうやらその「システム」側が薄く広く空気のように、それら「世帯」に足場を置いて遠近法的に構築されてきていたはずの「日常」の全域を覆うようになってきているらしい。

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 「便利」というもの言いも、そのような状態、「日常」がそれら「システム」にコーティングされ包摂されて維持されている「快適さ」と、それらの内側で間断なく生成されているらしい「流れ」の感覚への依存度合いに従って、自明の日常感覚として共有されるようになっている。

 ならば、そのような「情報」化以外に、もはや「便利」はあり得ないのだろうか。

 おそらく、いまの時代、このような世の中のありようからすれば、その他おおぜい最大公約数の誰にとってもまんべんない「便利」というのは、それしかないんだろう。でも、他の誰かは知ったこっちゃない、とにかくこの自分にだけ「便利」であるような環境なり条件ならば、それら「情報」化とはまた別の、あるいは同じ「情報」化でも違う意味あいの「便利」というのを、実際に考えられるような気はするんだけれども。

 

*1:スーパーなどで生鮮品や惣菜その他をパックにして商品にする際、使われているスチロール樹脂系の受け皿のこと。半ば汎用名詞みたいになっているが、考えたらあれ自体にそのものとして与えられた名前がないよね、というあたりの話から、身近にある具体的な「もの」だけれども「名前のない」理由などを考えようとした次第。