「うた」と「からだ」――北と南、東と西、「上京」「望郷」の描かれ方・メモ

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 椎名林檎が歌い直してみせたことで、性的存在としての「ぼく」の不在とその後とが裏返しにくっきり浮かび上がってしまって、太田裕美(1975年)と椎名林檎(2002年)のあいだの本邦精神史的な意味での違いや落差までもが否が応でもくっきりと、な件。

 長渕は「北へ北へ」で「花の都大東京」へ行っとるんだがな。


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 これは1977年。「北帰行」以来のイメージがまだ活きていた頃。


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  「北帰行」は確か宇田某という御仁が旅順の高校を放校だか退学だかになって内地に帰る時にこさえた自作の歌、といういわれのあるものだったかと。*2

 その頃私はテレビキャラクターを追いかける仕事をしていたことは、このシリーズで何回も書かせていただいたが、TBSの親睦会にはいつも番組編成部の岡崎潔氏を中心に小旅行をしていた。時折岡崎氏の上司の宇田博氏が同行することがあったが、何回目かの旅行の折、宇田さんは同行の一同を見渡して、「皆さんは相も変わらず同じ仕事をしているんですなァ。私は随分出世しましたよ」と言って皆を笑わせた。宇田さんは、そうした軽口も、不思議に嫌味ととれない人柄だったし、事実宇田さんは、局内でも当時編成局長という要職にあったし、それなりの貫禄とオーラを備えていた。そして、この宇田博さんこそが、「北帰行」の作者その人なのである。旅順高校を放校になり、孤り親の家のある奉天へ帰った若き日の挫折を歌ったこの歌は、長いこと「作者不詳」となっていた。のちに、宇田博作詞・作曲ということが判明して、ボニージャックスや小林旭の歌声で広く世に知られたが、宴会で酔った宇田さんは照れながら私の耳許で…「あれは若い頃の歌でネ、(ボッキ行)と言うのが正しい」と、いたずらっぽい笑顔でささやいた。私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても | 根本圭助 | 松戸よみうり新聞

 戦後、TBSの編成局長にまで「出世」されとらすということは、テレビ黎明期に現場に入ってきた最後の戦前教育世代という感じで、なぜか戦後のうたごえ運動介して広まり、後に小林旭以下がレコード化という流れで知られるようになったという経緯も含めて、高度成長期のわれら同胞のココロのありように受容された「うた」ということになる。

 出張帰りに羽田空港で斃れて亡くなった親父のカラオケのカセットテープがなぜか手もとに残っているのだが、それがこの「北帰行」。大阪でセメントその他の営業やってた頃だったはずだから1970年代後半くらいだろう。いずれ接待か何かで行ったバーかクラブあたりで記念に録ってもらったものみたいなのだが、昭和3年生まれのひとケタ世代で音楽と英語はからきしダメ、いわゆる趣味や道楽の類もほぼ縁のなかった親父がたどたどしく歌う声だけが「音」として残されているのだが、そんな彼のかろうじて歌える「うた」として当時、こんなのが選ばれていたことを思い出した。

 「北」志向は当時、こんなのも生んでいた。1975年、あの『寺内貫太郎一家』の挿入歌としてそれなりに流行った記憶がある。テラカンは制作がTBSだったから、先の宇田博のサジェストなり何なりあった可能性はある。
徳久広司 北へ帰ろう

 とは言え、こういう戦前的というか、当時の感覚としてすでに「古い」ものになっていたココロやキモチの表出、センチメントの表象は、一周回ってポップで「ちょっといいもの」になっていた時期。それこそ「女のみち」(1972年)がそれまでの流行歌、いわゆる「演歌」と称されるようになっていた定型のどこかパロディ的に受け取られて、当時浸透し始めていた有線放送のネットワークを介して大ヒットしていたことや、梶原一騎の「スポ根」ものもそういう脈絡で受け入れられていたのと同じように、こういう「北」の表現もまた、「古い」がゆえに何か新たに喚起するものを当時の〈いま・ここ〉感覚に与えていたようではある。
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 明らかにパロディ的距離感が介在している横尾忠則による表紙。しかもモノクロでもある。オークションなどでは時に10万くらいの値がつけられてたりするようでもあり。1970年5月。


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 さらに、これも1979年。「東京」も「上京」も歌詞としては具体的に出てこないけれども(シングルバージョンでは)、でも「上京」前提に自明に聴かれていたとおも。

大阪で生まれた女 フルバージョン

 「木綿のハンカチーフ」問題に戻れば、どうしてあの「上京」のイメージが「北」からのもの、と思い込んでいたのか。おそらく「草原」というバタ臭いw語句で「故郷」がほのめかされて≒抽象化されているあたりが悪さしとったんかな、と振り返ってみれば。確かに、「九州」なり「西」に「草原」のイメージはなじまなかった。そういう「草原」「高原」のバタ臭さ≒モダニズムorアメリカニズム、の表われとしてはこのへんからくっきりと、か。


高原列車は行く(岡本敦郎)

とんがり帽子 (鐘の鳴る丘) ♪川田正子

 そして、「木綿のハンカチーフ」と「卒業写真」が共に同じ1975年のリリースという事実。


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 イナカに置いてかれるオンナ、と、マチで変わってゆくオンナ、のそれぞれ。で、この後者にしても、集団就職だの何だのでマチに働きに出てきたわけでもなさげなあたりが重要なわけで。働きにマチに出るオンナならば、それこそ太田裕美自身も「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングと確か自分でも言っていた「赤いハイヒール」(1976年)で歌ってみせていたわけで。


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 だからこそ、荒井由実の「衝撃」というのは、それがどれだけ当時の世間一般その他おおぜい的感覚にとってまだ「異物」であったか、に裏打ちされていたんだが、な。

*1:NHK-FMの例によっての「○○三昧」で松本隆特集をやっていて、その流れでTwitterのTLがにわかに盛り上がって、という中でのこれは極私的な備忘録として。 twitter.com

*2:このへんに事情が記されていたはず。