
本を読むとき、メモをとりながら読む、という作法は昨今、もしかしたら廃れてきているのかもしれない。
スマホでもパソコンでも手もとで開いて、当然それはネットに繋がっているわけだが、そういう環境になって初めて、何か本を読んだりものを考えたりする、あるいは「できる」ようになっているところが、もしかしたらあるのかもしれない。これは自分ごととしても。
記者会見などの映像で、そこにいる取材側の記者たちがほとんどお約束のようにノートパソコンを開いているようになったのは、いつ頃からだったろう。現場でそういう後継に遭遇して、え? という違和感をまず抱いたのはもうだいぶ前のことになるけれども、まあ、もうずいぶん前から自分自身そんな現場に立ち会うような機会がほとんどなくなって久しいのだから、このへんの記憶はあまり証拠にはならない。にしても、その違和感というのは、前にも何度か触れたかもだが、その場にいながらその眼前で起こってることに集中してコミットしなくなっている、あるいはそうしなくても別に構わなくなっている、そういう生身のありかたに対するものだったと思う。
外化された「知識」「情報」の「蓄積」を手もとで操りながら本を読む、あるいは同じようにデバイスを介して「情報」を取り入れる、それらの過程でものを考える、いずれそのような〈知〉へと収斂してゆく営みをすることが当たり前になってきている近年の情報環境。わざわざ「暗記」して「蓄積」することに常に生身を緊張させ、頭脳をそちらへ稼動するように意識することから解放された分、集中と内向によって規定されていた自意識も一気に散漫に、拡散したものになってゆかざるを得ない。
良し悪しはひとまず措いておかざるを得ない。というのも、他でもない自分からして、ネットに繋がったモニタ、できればキーボードもついた環境で何かものを読んだり書いたり、あるいはそこからあれこれ考えたり、といったことをしなくなっている自覚があるからだ。
確かに「便利」ではある、ほんとにあらためて考えれば格段に。だからこそ、その「便利」が「そういうもの」になりつつある過程の真っ只中に生きていること、について、できるだけ意識化しておくように努めてはいるのだけれども。
会議でも何でも、その場に生身を集わせて、その〈いま・ここ〉で何らかの意志疎通なり意見交換なりをやって、「関係」の裡に何らかの合意や共通の見解を宿らせようとする、言葉本来の意味での「話し合い」の現場においても、もうすんなりあたりまえのようにノートパソコンを開いて目の前の机の上に置いて、それを横目でちらちら「参照」(なのだろう)しながらそこに「参加」(なのか?)するという身ぶりが日常の風景になっている。
手書きのメモやノートを手もとに置いて、その場での「関係」に参与する生身のありよう、といった場合の、なんというか意識の分配の度合い、気配り目配りなども含めた制御の塩梅といったものが、すでに少し前までと違うありようになってゆきつつあることを、もう少し大きな歴史の文脈でピン止めしておきながら考える素材にしておこうとは思っているのだが、さて。