
一連のポスト、「日本では文章の書き方を学ぶ機会」が学校の外にあるということをも踏まえると、
— 加藤AZUKI (@azukiglg) 2024年12月4日
「自由を与えられて一律の同じ内容しか書けない日本人が、山ほどの創作物を生み出してもいる矛盾」… https://t.co/MWYsrjYIlw
一連のポスト、「日本では文章の書き方を学ぶ機会」が学校の外にあるということをも踏まえると、
「自由を与えられて一律の同じ内容しか書けない日本人が、山ほどの創作物を生み出してもいる矛盾」
「やり方を徹底して教え込まれて、自由な出力ができたはずのアメリカ人が、商業制作物ではテンプレしか作れなくなってきている不思議」
つまりは、「学校で教えた作文技術」と「実社会で製品化されている商業生品としての物語コンテンツの出来や裾野や供給量の違い」という謎がある。
たぶん、「学校で教える正しいやり方」でもない、「好きなようにしてよい」は、学校教育の成果物のほうでなくて、「同人活動」「なろう」「SNS大喜利」などのほうで育まれるんじゃないか、とか。
これらは義務教育ではないから、「身につく人、付かない人」「好きなやり方に接する機会」の差が出る。
が、
「こんなことやってもいいんだ」
「そんなやり方もあるのか」
「それがいいならこれだって」
「俺はもっと凄くするぜ」
「私はその裏を掻くわ」みたいな感じで、「学校で教わらないやり方の学習機会」「裏を掻き、裏の裏を掻き、想定外の何かをやり、それを是として真似る」みたいな機会が制限を受けることなく存在し続けていることが、結果的に「エンタメとしての文章の多様性の苗床」になっている。
対して、「テンプレを徹底され、出力が多様性を持つようになった」はずのアメリカからは、そうした「多層的な文章作成者」があんまり出てきてない感がある。いないわけではないけど、多くない。
今年は「多様性」とか「DEI」とかのキーワードを見かける機会が多くて、日米の「多様性」に対する向き合い方の違いなんかを再考する機会に多く恵まれたんだけど、
アメリカは「ひとつの作品に多様性を求め、全ての作品が多様的でなければならない」という傾向が強く、
日本は「全ての多様性に考慮した作品である必要はなく、全ての作品が多様性を孕んでいなければいけない訳ではない。大きく偏った、時に問題の多い作品であってもよい。そういった作品ごとの様々な偏りを全て許容するのが多様性だ」って方向性。
「あらゆる全ての作品には、あらゆる全ての民族・人種・政治的指向性が描かれなければならない」というのを求めた結果、似たり寄ったりになるのが現代アメリカの作品傾向で、
「作者が好き勝手に趣味に走ってよい。読者は多くの様々な方向、ベクトルに偏ったものを、好きに選んでよい」とした結果、あらゆる性癖、拘り、趣味、偏見wを備えた作品が選択肢として乱立したのが現代日本の作品傾向。
結果的に、「全ての多様性を一作品の中で配慮してない日本の作品は差別的!」とアメリカから叱られたりしているw
学校教育における小論文/作文の指導が期待したことと、「作品を描く」というフェーズに移行した後に起きていることの逆転は、これはこれでなかなかにおもろ。
ふと、昔聞いた話思い出した。
日本は識字率が非常に高く「印刷物の娯楽」(本、小説、漫画など)が安価(これは江戸時代からずっとそう。黄表紙、浄瑠璃本、その他の庶民の娯楽に読み物が多くある)だけど、
アメリカは低収入家庭出身者の識字率が低く、伝統的に「映像の娯楽」(映画、テレビ、芝居、動画など)が安価になったのだそう。だから、今も映画が安い。サブスクになって更にお安い。
日本も無料の地上波放送という映像娯楽があるし、サブスクも浸透してるんだけど、映像娯楽はタイパが悪いつーか、映像出力装置の前に拘束されがちになる。書籍類(今は電子書籍に引き継がれているが)は、「文庫本など場所を問わないユビキタス性」「細切れの時間に細切れに消費できる可処分時間単位の低さ」「供給価格の安さ」「供給機会の多さ」などから印刷物(現在は電子書籍も含む)の娯楽が長く広く求められる下地がある、とかの。
動画の可処分時間単位の小クラスタ化(ショート動画など短時間映像の拡大)や、スマホ/タブレット端末での視聴によるユビキタス化など、映像娯楽のほうもかつての書籍娯楽の強みに肉薄してきてるとは思うし、これに今はゲームなど双方向性でユビキタス性の強い娯楽も乱入してはいる。
なので、日本のコンテンツも北米進出するときは原典wよりもまずアニメから、となってた。今は原典のほうも売れてるらしいけど、それでも、「高価」「モノクロが基本だから、アメコミと比較して高く感じる」「文字を読むのはギーク」みたいな伝統的背景がどうやらあるっぽい。
書籍娯楽の強みは、「大量の物語を次々に消費できる点」にはあって、ここらへんは日本が「書籍娯楽供給過多」だからというのもあるとは思う。映画だって一生掛けても見切れないほどあるけど、底の分厚さでは書籍娯楽のほうが沼が深い。新作の供給量がパないので。
似たような物語の中に相違や共通性を見出したり、似たような物語を「一般教養」として通過していることを前提として、そこからもう一段跳ねた物語を読ませられたりする、そういう意味でのハイコンテンクストさも求められたりはする(物語の類型の、もっとも原初にあるものを必ず知っている前提で進む物語、例えば、日本の童話/昔話を全て読者も知っている前提に立たされる藤田和日郎の「月光条例」とかw)。
そして悔しいwかな、無知ではない人ほど楽しめて、無知ではない人ほど裏を掻かれる訳で、知的マウント、思慮深さみたいなものを作品側から読者が挑まれる、みたいなとこがあったりとか。落語の楽しみ方とか、何なら源氏物語あたりにもそういうとこあるので、ここらへんは「書籍娯楽を嗜む日本人」が強いられ続ける著者からの呪いとか伝統みたいなもんかもしれない。
「土着の昔話、民話を、同一母国語の民族内で共通の知識にしている」みたいなん、例えば「桃太郎」「かぐや姫」「浦島太郎」「さるかに合戦」を知らない日本人はほぼいない(細部やオチに関する理解は世代差があるにせよ)と思うんだけど、そういう「国民なら誰でも知ってる」みたいな物語て、幼児教育や初等教育の過程なんかでも教材として共通して教えられている(初期の国語教育の均質性とかもあるのかも)。
そういう人種・民族・ルーツの枠の縛りがないことも、「物語の類型の基本形」を共有できてることに繋がってくのかもしんない。