
自意識や自我そのものがキモい、という感覚もなにげに広まりつつあるのかもしれん。
「責任感のない言葉ほどダサくてキモいものはない。本当にダサい。自分の言葉に責任を持たずに世に投げはなつ腐れ外道。こんなにも受け取る価値のないものはこの世に他とない。」
でもなぁ、それも結局こういうexcept me的な棚上がりを自明にしてる自意識、が前提だったりするみたいなんだわな。
「そして、こんな人間たちと同じものが好きという時点で結構しんどい。一生関わりたくない人間たちと同じ括りで扱われることが不快だ。」
「他と一緒にされたくない」というのはひとまず自意識や自我の輪郭がはっきりしていることではあるだろうが、でも同時に「一緒にされたい」存在もまた強く希求されるようになっている、ということでもあるはずで。
仲間なり身内なり気心の知れた間柄なり、いずれそういう「わかってもらえる」関係ということなのかもしれんけれども。
その「わかってもらえる」の「わかる」というのが、全人格的に「自分のこと」をまるごと(に近いかたちで)わかってもらえる、という幻想もまた肥大していったのかな。それが無理だから「せめて趣味の部分だけでも」的な限定条件つきの「わかってもらえる」に殺到するようになった、とか。
「趣味」なり「好きなこと」なりへの執着やそれを介した承認欲求充足の欲望と、いわゆる「恋愛」との(おそらくはあれこれ拗れまくった上での)関係について。