社会学が突出して症状化しているから袋叩きにあってるけれども、これはある部分、かつての文学なり社会評論なりの〈いま・ここ〉を言語化する文法・話法が、その背後にあったインテリ文化人的自意識ごと、いまどき情報環境では全方位からの批判にさらされるということでもあるんだろうな、と。
槍玉にあげられている人がたの側が、なぜそういう目にあってるかよくわからない風なのもまた象徴的で、それはまさに「そういうとこやで」と言われざるを得ないような、自意識のありようの問題だと思うんだが、それ自体ご本尊にとっては自明の共同体wに溶け込んでいるらしく気づきようがないという……
ゆるく考えたらこれって、いわゆる「いじめ」(この言い方よくないんだがとりあえず)の構造と地続きなところはあるようで、ただそれがおそらくご本尊がたの日常半径身の丈の範囲では発動されていない、そのへんの「社会」への属し方、「個」の「関係」と「場」のありようの問題に関わってくるとは思う。
「文学部」が解体されていったことと、「社会学」の煮崩れ頽廃との関連性。
仏文専攻だからフランス映画が、露文専攻だからマルクス主義関連趣味が、といったそれぞれの「●●文学」専攻というのは必然的に「●●文化」「●●史」に興味関心を抱くようになっていたから、「文学部」はいわゆる文化論、文明批評的なものから、昨今の語彙だとサブカル趣味みたいなものまでゆるく幅広く受け入れる受け皿になっていたわけなんだが、な。