読み方についての来歴・雑感

 読むべきものとしていの一番に「論文」というジャンルが疑いもなく当然のように出てくる、出せてくるあたりがもう、外道にゃ理解でけん感覚だったりする。

 読むべきだと思ってそう判断したなら何であれ読む、文字活字であれば言わずもがな、それ以外のものでも何でも「読む」。そんなものだと思ってきたし、そうでなけれりゃ肥やしにゃならんと勝手に思い込んでもきたんだが……そういうのはもう、完璧に置いてかれてるんだろうな……

 とは言うものの、エラそうに能書き垂れるほどには何でも読めてきたわけでもない。むしろ逆だ。何かこちらにシンクロしてグッときた、感じるもののあったものを掘って探って読む、広く浅く眼配りよく、ではない、むしろマテ貝の穴みたい小さい深い穴がいっぱいあいている、そんな感じが近い。

 「体系的」とか「バランスよく」とか「眼配りよく」とか、そういうことが大事なのだと聞かされてはいたような気がする。気がする、程度なのがそもそももう不信心な外道丸出しなのだが、何かそういうのは胡散臭く、信用ならんという感覚だけがしっかり身の裡に根を張ってたらしいのだからしょうがない。

 「体系的」に「眼配りよく」を心がけてゆくとどういうことになるか、というのを直感的に、言い換えれば手前勝手に察知はしていたのだと思う。おもしろいことにはならない、おもしろいことを考えたりやったりできなくなる、何よりそういうその人自身がおもしろくはまずなれなくなる、そう思っていた。

 長谷川伸は時代に韜晦し「紙碑」に沈潜した。平山蘆江は失われたむかしの暮らしとそこにあった「玄人」の世間の手ざわりにだけ意識を尖らせ合焦していった。われらがサトハチもまた、「戦後」を鏡に自分の裡の「あの頃の浅草」を賞翫しなおすことで磨きをかけざるを得なかった。「敗戦」「戦後」が否応なくもたらしていった、それぞれの韜晦、沈潜のありよう。それはまた、安吾や泰次郎らの、当時得手に帆をあげて疾走しているかに見えていたはずの界隈にとっても、どこか同じココロの傾きをもたらしていたはずのものでもあったはずだ。