「歴の長さ」の現在・メモ

 趣味でも仕事でも「歴の長さ」という、後から来るものが原理的に追いつき追い越せない基準を振りかざすのは、それ以外に自慢がない小物と言っていいんじゃないだろうか。例えば私が、現役で売れてるラノベ作家に「でもキャリアは俺の方が長い」ってマウントしたら見苦しさ以外はない。突き放した言い方すると「リアルタイムで観てた、読んでた」というのは単なる環境と運の話であって「意志」の要素は薄いんだよな。たまたま1965年生まれなので『仮面ライダー』を観てた俺より、平成ライダーから遡って旧1号をちゃんと観た奴の方が意志に基づいている。ただその世代が持つ場の空気というものを知ってるかどうかというのは大事な財産になるとは思います。勿論振りかざすのは悪手ですが、リアルタイム体験者には「データでは見えにくい時代の空気や地域ごとの差、評価が形成されていくプロセスの体験」があり、後から入ってきたものは「整理された豊富なデータと、それを客観的に見る視座」がある。両方合わせればこそ三角測量の精度も増す訳で。

 「経験」に対する敬意なり価値の計測の仕方もまた、時代によって、社会のありよう情報環境のあり方によって変わってくるのかも知れない、という件。年功序列や長幼の序といった儒教的(だか何だか)なココロの習い性などによる説明とは別に、〈いま・ここ〉に即したものとしての。

 かつて、今みたいにweb環境を介しての「検索」だの何だのが想定すらされていなかった、だから紙の媒体、書物やそれに準じたモノをひたすら手作業で手間と暇とを味方につけて探してまわり、その上で「読む」ことだけが仕事の中心にあった頃、それらを長年積み重ねてきたというだけで、年上というのはそれだけ情報量がミもフタもなく多いもの、というのが言わずもがなの常識になっていた。だから、それらの事実に対してはとりあえず「勝てない」というのが逆らいようのない現実であり、たとえどれだけボンクラでサボってきた年上であっても、少なくともその「経験」の質ではなく物理的な量に対しては対抗できないのであり、だからその点において敬意を払わざるを得ない、そんな感覚があたりまえにあったように思う。

 特に、いわゆる国文学だの歴史学だの、いずれ紙の媒体を「読む」ことが必須の前提になっていた領域だと、とにかく年月かけてたくさん「量」を読んでいた側の優位は圧倒的かつ逆転不可能なもの、という認識があたりまえだったようで、それがその後のデジタイズ技術とweb環境の普及とで根底から覆されてゆく過程を経験したのも確からしい。「経験」と共に積み上げられていたはずの「読む」の可能性が一気にフラットに平等に開示されて、キーボードとモニターを介して駆け出しの学生若い衆にでもまずは同じ「情報」にアクセスできるようになった、と。

 もちろん、その先それらを「読む」のは生身の作業だったはずで、その部分でかろうじて「経験」のアドバンテージは保証されるもの、と思っていたら、その「読む」過程もまたIT化された別の「読む」が介在するようにもなってきて、いずれ生身の個体の「経験」をもとにした「読む」にだけ依拠していたそれら〈知〉の生産過程が相対化されるようになったことはひとまず間違いなかったらしい。

 個人の「経験」が、経験「値」とそのまま等号で結ばれることに違和感を持たなくなっていった。ゲーム的な世界観とも言えるかもしれないが、全てを「スペック」「数値」「データ」「情報」に変換することで、現実に対する見通しが一気に良くなるように感じる、そういう効果も含めて、それらの世界観の変化はわれわれにとっての「現実」のありようにも関わってきていないはずはない。*1

*1:このあたり、元のtweetは「おたく」世間での身ぶりについてのものだったのだが、学術研究やら何やらとそのアウトプットとしての〈知〉のありようとも当然、のっぴきならないレベルで関係してきているはずで、殊に「紙とエンピツ」で本質的に事足りてきていたはずのいわゆる人文社会系の分野においては、より鮮明に鋭角的にその変貌は問題化してきているはず、なのだが……