「おはなし」のリテラシーの重層性、について

 手塚治虫にまつわる「伝説」についての、もうひとつ別な側面からの考察のための走り書き。殊に、戦後の貸本劇画時代の手塚治虫圧勝状況の背景について。*1

 手塚が戦前の阪神間の裕福な家に生まれ育ったことは有名だし、そこで育まれたさまざまな「文化資本」が彼の作品を大きく基礎づけていたこともまた定説になっているけれども、その初期の貸本劇画時代、読者であり顧客・消費者である当時の子どもたちが「オサムシのが読みたい」と口々に名指しでリクエストしてくるほどにほぼ圧勝状態だったこと、の背景については、まだそれほど立ち止まっての考察はされていないように思う。

 手塚の家庭環境が当時としては恵まれたものであり、また当時の関西の阪神間在住の商社マンの子弟としても相当に文化的な空気の中で育ったことは確かとして、ならばその「文化的な空気」の内実というのがどのようなものだったのか、いわゆる児童文化的な脈絡での「教養」の醸成という角度から見た場合、特に後の戦後日本マンガを規定することになったとされる「手塚的長編ストーリーマンガ」へとつながっただろう「おはなし」についてのリテラシーのありようというのは、まだもう少し深めて考えておく余地のある問いのはずだ。

 初期の手塚の書き下ろし長編ものの代表作としてあげられる「新宝島」や「ロストワールド」、「罪と罰」などのラインナップは、いずれも文字の読みものとしての下地の作品があり、それぞれ戦前の児童文化的な脈絡からすれば、恵まれた家庭の子弟が「子どものために」と与えられる読みものの類にプロットされるべきものだった。それらを言わば、マンガという表現に翻案、コンバートするような形で、初期の手塚はそれらを敗戦後間もない貸本漫画市場に放流してゆくことになる。

 そこで遭遇することになる読者であり顧客・消費者でもあった子どもたちの多くは、そのような児童文化的な脈絡での読みもの体験を手塚ほどにではなくてもそれなりに持っていた者たちだったのだろうか。これは当時の貸本漫画市場、特に手塚が最初にデビューした大阪を中心として市場での読者だった子どもたちのあり方や、彼らの「おはなし」のリテラシーなどに関わってくる問いになる。

 手塚の貸本漫画を介して、初めてそのような児童文化的な、文字の「おはなし」リテラシーの側の整序された「おはなし」に触れることができた、そんな層の子どもたちが手塚の最初のファンとなった中に確実に一定比率で含まれていただろう、という半ば確信が自分にはある。彼らは文字の「おはなし」リテラシーから疎外された、話しことばの「おはなし」リテラシーの側で主体化していった層であり、そのような意味での「その他おおぜい」の自意識の輪郭を持つものたちであったろう。「新宝島」の下敷きになっていたはずのスチーブンソンの「宝島」をよく知らないままでも、ドストエフスキーの名前などロクに聞いたことがなくても、眼前のオサムシの漫画は彼らにとって間違いなく「おもしろい」ものだったし、心躍らせてくれる何ものか、を確かに感じさせてくれるものだったのだろう、そう思う。

 概ね昭和10年代生まれの子どもたちが中核であったと想定される彼ら手塚の最初の読者たちは、山中恒の言う「ボクラ少国民」世代でもある。戦時中、マチの子ならば勤労動員や戦時疎開に駆り立てられ、中には空襲で親兄弟を亡くしたり、自ら全く預かり知らぬところで人生の未だはじまりの段階でさまざまに運命に翻弄されることになった世代ということになる。その彼ら彼女らの「教養」とはどのようなものだったのか、それがおそらくここで下敷きにされるべき大きな問いでもある。

 いわゆる児童文化的な枠組みでの文字の「おはなし」リテラシーというのは、それこそ巌谷小波の頃からある意味既定の要因となっていて、今で言う読み聞かせ的な朗読を介した「耳で読むリテラシー」の涵養もある程度は想定されていたとは言え、大正期あたりからの黙読の習慣の浸透に伴い、子どもに対するそれら「読む」習慣のあり方もまた、文字とそれに対する黙読中心へて転換させられ、文字と声の間に分割線が引かれることになっていったことが推測される。*2

 それに対して、文字以外の「おはなし」のリテラシー、別の言い方をすれば話しことばに対してより直接的かつ直感的につながった「おはなし」のリテラシーというのも同時に存在し続けていたはずで、それは「学校」的制度の内側からは疎外されてゆくものだったとしても、たとえば立川文庫に象徴されるような通俗読みものとしての「おはなし」へと結晶していったのだろう。

 それらは文字の「おはなし」のリテラシーからすれば整序されておらず、文脈や脈絡もまた理路整然とはしていなかっただろうが、しかしその分、話しことばの水準での身体感覚や官能などをより強く喚起し得るような、言わば「声」を内包した度合いの高い「おはなし」テキストでもあったはずだ。*3

*1:マンガ「研究/批評」をもう一度、大衆娯楽/文化の脈絡に寄り添わせてゆくための作業の一里塚、的に

*2:年来指摘している「耳で読む力」の民俗的背景についても、おそらくこのあたりの視点とからめたところで「歴史」像の立体的回復に寄与できるものと思われる。

*3:前のめりに先廻りして言っておくならば、それはおそらくあの書き講談から読みもの文芸へと連なる「もうひとつの文学」のありようとも親しいものだったはずでもある。文字の「おはなし」リテラシーからすれば雑然とした、つかみどころのいまひとつ明確にならないようなものとして認識されてゆかざるを得なかった「おはなし」テキストとしてのそれら読みものの類は、成人であれ子どもであれ、そのような年齢的な差異を初手から不問にしたところで読者を選別するところがあったものと思われる。