「役に立つ」図書館・メモ

 地元図書館で配架手伝いしたけど、「”田舎は何もない”は、都会(の価値観)から見て何もないだろ?実際はあるの!」と言う人の気持ちも少し分かったわ。俺的には「アレもコレもない図書館」だが、老人達は俺が名前も知らん作者の時代小説を山ほど借りていく。老人達には「アレもコレもある図書館」なの


 同じ図書館でも老人と俺では見えてる光景が全然違うんだな、と思った。あと俺が普段見向きもしない料理本なんかが主婦達に大量に借りられていく。絵本もそうだな。絵本コーナーは子供が遊べる場所にもなってる。「なんだ。図書館、無茶苦茶人の役に立ってるじゃん。地元に貢献してるじゃん」と思ったよ


 「本は人の役に立つのか?」みたいな話があるけど、そういう人が想定してるのは文学書なんだよな。「本」を凄く狭く捉えてるワケだよ。まるで「料理の本なんて本じゃない」と言わんばかりだ。でも実際は料理のHOWTO本も「本」なの。そしてそれは凄く役にたってる。この質問自体が文學好きの傲慢かもな


 まぁ、都会の図書館にはそういう料理本や時代小説も含めて山ほど本があるのだろうが… 


 ともあれ、意外といい経験をしたよ。ホント。

 博物館や美術館、各種ホールやイベント会場などが、全国津々浦々(と言ってもいいだろう)の県から市町村レベルに至るまで、それぞれの名前で頑張って建てられていった過程が戦後にあって、それは「文化」立国という本邦戦後の母国再建、郷土再興の初志と共にあり、だからこそ図書館などは、その最初の段階で構想されやすい、敷居の高くない「文化」施設だったのだろう。

 公園や運動場などは、食うや食わずの戦後においては優先順位は高くならないし、学校の再建あたりがコンセンサスとしてもとりやすい、図書館もそれに付随した学校図書館というたてつけも含めて、まさに「文化」のしるしとして予算をまわすことに抵抗感は少なかったはずだ。

 だから、「公共」図書館はそこら中にできた。できて、司書という仕事もまた、それなりの仰角視線で見られるような資格コミのものになり、「文化」的な仕事として、後の学芸員などよりも早くから、教員と並んでステイタスを伴うようになっていったのだろう。そしてそれは、「女性」の仕事としても、当時の世間として想定しやすいものになっていったはずだ。

 そこら中に図書館がうっかりできてしまったあとに、戦前昭和初期あたりとはまた違う規模や内実を伴う大衆的規模での読書人口の爆発が起こった。中間小説やミステリー、歴史小説といった「おはなし」系読みものは言うに及ばず、各種ハウツー本やビジネス本、資格試験なども含めた「試験」一般に対応する問題集や参考書から、〈おんな・こども〉を消費者として想定する市場の拡大が、マンガや学習雑誌、手芸や趣味にまつわる出版物に至るまで、とにかく「本」「書籍」というかたちになった商品が、それまでの枠組みではさばききれないほどに拡充、拡大していった時期に、図書館もまた、その期待される役割を否応なしに変えられざるを得なくなっていった――はずだったのだが、さて、そのあたりの対応を現実に即して制御し、よりよい方向へと向かわせるような方策は正直、とれらないまま世紀末から新世紀へ、そして現在へ、ということなのだと思う、ごくごくおおざっぱな見取り図としては。

 普通の人たちの「読みたい本」をできるだけ用意する、という公共無料貸本屋としての機能が必然的に求められるようになり、それが戦後由来の「文化」のタテマエの下、野放しになり続けてきたこと。と同時に、図書館本来の、とされるその地域ならではの貴重な選書、残しておくべき資料類の保存と維持管理、といった側面がどんどん等閑視されるようになってゆき、その果てに出てきた現実のひとつが、例のTSUTAYAプロデュースの「あたらしい図書館のカタチ」ということになるのだろう。

king-biscuit.hatenadiary.com
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 「役に立つ」ことと、「文化」との間の距離が埋まらない。いや、その距離があることすら、まともに正面から言語化して問題化してこれなかったというのが、ほんとのところか。

 そうこうしている間に、「本」「書籍」というメディア自体が、情報媒体としての役割をひとまわり終える情報環境にさしかかりつつあり、そもそもがハコものとしての「図書館」というしつらえ自体、本当に地域に、そして社会に必要な「文化」施設たり得るのか、少なくともいまのようにそこら中に図書館と称する施設があるような状態が、この先のわれわれの社会にとっての「文化」施設として健全なものなのか、といった問いもまた、待ったなしの課題としてつきつけられている令和の御代、なのである。