母親がパソコンを捨てた


 母親がパソコンを捨てた。もうパソコンはやらないのだと言う。


 四半世紀もの間、メール書いたり、文章書いたり、写真とったり、Facebookにアップしていたが、WiFiがつながらなくなり、つなげ方が分からないという理由で、永遠に止めてしまった。デジタル人生の死だ。


 彼女はスマホタブレットもやらないから、それが唯一のネット端末だった。
 つまり、彼女はネット空間を全て捨てたのだ。

 僕にとって、パソコンとネット空間を捨てることは、両脚を切断されるよりも恐ろしい。
 僕の人生は半分以上デジタルになっていて、デジタル部分が死ぬと、僕の精神は半分以上失われてしまう。

 だから、彼女が死んだかのような感じがしている。
 そんなショックが後を引いている。


 止めるという連絡はなかった。


 僕の母親は、向上心が高く、パソコンを積極的に使いこなそうとしてきた。プログラミングスクールにも通ったりしていた。デジカメを買ったり、文章を書いたり、メールを書いたり、いろんなことにチャレンジしてきた。

 しかし、まともに使えるようにはならないまま、四半世紀が過ぎて、こういう顛末となった。
知能が低かったからではない。国立大を卒業できる程度の知能はあった。塾を開いて数学を教えることもできていた。


 悲しい。気持ちの整理がつかない。

 うちのオカンもそうだったなー。騙して買わせて、投げ出したマシンで育ってきたから何とも言えないところはある。

 今88歳の父はiPhone使ってました。PC98の頃からPCも使ってたので普通に使えてたと思います。数年前からメールの返信が来なくなり、聞いたところ「もう使わない」と返事。その2年後には認知症の診断を受けて今は施設です。お母様も認知症の初期の可能性があるかもと思ってしまいます。

 もしかすると、運転免許を自主的に返納する老人のように、今後認知症などでネット上で間違いを犯したり、詐欺に騙されたりするリスクを感じて、WiFiの接続が切れたのをきっかけに、先んじて引退を決意されたのかも知れないですね。

 自分も、いつまでネットで活動し続けられるんだろう、と考えます。

 こちらを思い出しました。親はもちろんなんだけど、そのうち自分も老いてこうなってしまうかもしれないんですよね、、、

note.com

76の母はPCでGyaoの韓流ドラマを見るのが趣味だったんですが、
Gyao終了と共にその趣味は完結したらしく
後にFire TV StickとNetflixを導入して、これでまたいくらでも韓流が見られるよ、と言ったのですが1ヶ月くらい見ただけでもう完全に興味を失ってしまいました

自分の父も似たような状態でした。
デジタルデバイスに限らず、人生の選択肢を片っ端から捨て去り、その頃からは認知機能に大きな障害が現れました。
やがて何も食べられなくなってしまいました。
お母様と繋がってください。

少し前のポストにある「両親の酷い生活」の一部がこれなのかな?
大半の人は年齢を重ねれば変化を嫌う傾向だし、デジタル時代前から生きている人にとってはデバイス無い生活も(多少の不便はあれど)対応できるだろうし


なんか価値観の押し付けみたいな感じがするな

 「死」というのが、生物・生体としてのそれと、社会的なそれとの間に違いやズレが出てくるのは、意味を呼吸して生きるという「もうひとつの現実」――クリシン流に言えば「脱げないパンツ」をはいて/はかされてしまったわれらニンゲンゆえの難儀だとは思うが、昨今はそこにまたひとつ、デジタル生活というかデジタル環境における「死」というのも加わってきているらしい。

 もちろん、それは社会的な死のひとつの局面ということも言えるのだろうし、まずはそのように片づけておくのが穏当で無難な理解ではあるのだろうが、ただ、それだけでは片づかない何ものか、というのもそこにはらまれているような気がするから、ことはうっかりと厄介だったりする。

 これまでの社会的な死は、生物・生体としての死と必ず紐付いていた。生身が死ねば、その生身が生きていた社会的な存在もまた死ぬ。社会の裡に記憶されているその個体のさまざまな情報というのも、しょせんは生身を介してのことだったから、それらの記憶もまた、記憶している媒体、つまり生身の人がたが順次死に絶えてゆけば、いつかどこかの時点でそういう意味での社会的存在としての記憶の水準もまた、無に還ってゆく。たとえ文字やその他の媒体を介して「記録」されていたところで、それは生身の記憶とは本質的に異なる水準の物理的なもので、それらに対して「読む」の過程がその後発動されていったとしても、もとの生身の個体が生物・生体として生きてこの世にあったことを共に同時代を生きながら関わり、つきあい、あるいは間接的にせよその当時その時代の〈いま・ここ〉を共に生きていた生身の記憶の裡に何らかの情報として含み込まれていて、それらをそのそれぞれの生身が自分ごととして内面的に「読む」を行うこととは、おそらく全く異なる行為なのだと思う。

 これは、「歴史」の水準にはらまれる連続/不連続、〈いま・ここ〉が「歴史」に組み込まれてゆく過程におけるあの越えがたい一線、未だ明確には意識化され方法化もされていないように思える「違い」に関わってくるのだろうが、それはともかく。

 デジタルな社会的存在にとっての「死」とはどのようなものか。デジタル空間において生きてきたその個体、少なくとも何らかの人格――往々にして何らかのアカウントの類に紐つけられたキャラクターであり、その意味ではアバターであったりもするようなそれは、仮想的であれ社会的な存在としてあったわけだが、それが「死ぬ」というのはどういうことか。そのアカウントを維持し管理していた仕組みがどのようなものか、ひとりの生物・生体としての個人が運営していたならばまだ話はわかりやすいかもしれないが、複数による管理、それこそ何らかの組織や集団、会社などのアカウントならばどう考えればいいのか。管理者が交代して同じアカウントがなにごともなかったように継続して維持され管理され続けることも当然、あり得るし現実にすでに起こっていることだろう。とすれば、デジタル空間におけるそのキャラクター≒個、は生き続けているのだし、理窟としては「永遠に」生き続けることも可能ということになる。

 だが、ほんとにそうか。てか、そういうことで片づけてしまって、それでいいのか。

 デジタル空間に接続するための機器、それこそスマホであれパソコンであれ、それを「扱えなくなる」時点で、すでに「死」は訪れていると考えていいのではないか。その「扱えなくなる」というのが物理的に操作できなくなるだけでもなく、操作はできてもボケて「関係」が持てなくなる、またはそもそもそのような行為自体に興味を持てなくなる、など、そこで想定される内実は結構いろいろなものを含んでいるはずで、いわばデジタル空間に設定or仮想されていた社会とのつながりが切断してしまった時点で、もう実質的に「死」は訪れているのではないか。

 とは言え、ややこしいこともまたありそうなのは、そのデジタル空間と生身は切断されてしまっても、それまでその空間で「生きて来た」そのキャラクターとしての個は、継承も管理者の交代もされずに放置されたままならばそのまま存在し続けるわけで、それはいわばデジタルモニュメントといった具合にそのままに保存され、またその空間においてさまざまに「読む」ことを施されてゆくということになる。

 そうなると、デジタル空間における記憶とは何か、それが仮想的な社会であるとするならばそのような社会における記憶とはどのようなあり方になるのか、また、それら社会における「個」の記憶と「社会」の記憶との間に線引きはあり得るのか、またあり得るとしてもどのようにあり得るのか、などなど、さらにまた難儀な問いは連鎖してゆくらしいのであった。(gdgdとつづく、としか言いようがない)