「その他おおぜい」の民俗史/誌・雑感

 「大衆」や「民衆」といった語彙を介してイメージとして合焦・結像されていた「社会」のイメージが、立場によって複数の、重なり合いながらも本質的には異なる像として、同時代の意識の範疇にそれぞれ投映されるようになっていった過程。「革命」と「改造」の距離感。ゆるく要検討&要審議お題ながら。

 あるいは、当時の同じ時代を呼吸し生きていた政治家や官僚、軍人から、変貌する情報環境のある意味尖端の部分で、新しい「世間一般その他おおぜい」の手ざわりを先行的にうっかり察知していた層まで含めての、そのような「社会」イメージの複数化多様化と同時にそれらを統合してゆく何ものか、の問題。

 「ナショナリズム」であれ「ファシズム」であれ何であれ、いずれそれら大文字の概念でくくられる社会的現実にしても、そのような当時の〈いま・ここ〉同時代情況の内側からの「社会」≒現在、のイメージと併せ技で現前化していたという視点の必要。

 「日本」という表象wなども、言わずもがなに。

 昭和初年から10年代にかけての情報環境の変貌を介して、同じそのような「日本」にしても、相当に複数化、重層化した「維新以来」の70~80年の時間的経緯と共にイメージされていたはず、なこと。

 それこそ、柳田の「世相史」の射程距離が当時、そのような複数化、重層化してゆく「日本」の「維新以来」の経緯来歴の上に、政治的政策的な意図で企画されていたはずなこと、なども含めて。

 「新聞記事だけで歴史は描ける」という言挙げ(のちに失敗したと認めるものの)の背後にあったはずの、「個別具体」と「匿名性」の交錯するところに注力することで、「名無したち」の共同性に働きかけて大文字の抽象、概念や理論語彙で覆われ始めた〈いま・ここ〉を相対化しようとした可能性。

 「おキモチ原理主義」と「おポエム」の関係について。それらが「戦後」的な「平和」「反戦」「護憲」系の言語空間をさらにあかん方向にブーストかけてきた過程も含めて。「いのち」とか「生命」とか、そういうのが絡んできたらさらに斜め上、ターボかけたようなものになるわけで。

 生きることが大事、それは全くその通りで、いのちが何より大切というのも全く異論はないわけだけれども、でも、と同時に、だからこそ、死を賭して立ち向かわねばならない局面というのもこの世にはあたりまえにあるわけで。その双方の〈リアル〉あって初めて、「生」も「いのち」も大事になるはずで。死と引き換えに何ものかを、生きてある側に伝えてゆくこと、それを受け止めて生きてゆくこと、といった部分が、本邦「戦後」的な「平和」や「いのち」からは割と欠落してきているような気がする。

 昨今、「公共」とだけくくり出される傾向にある何ものか――それもまた、こういう生と死の相克の中に初めて、守るべきものとして共通のイメージが持てるものになるはずなんだとおも。