「アップデートされていない」ということ

 古い知識や認識のまま「アップデートがかけられていない」という言い方、最近ではもう割と普通に見聞きするようになった。

 けれどもそのもの言いの中身、意味内容ってのは実はいろいろズレや違いをはらんでたりするような気がする。パソコンが普通に広まった上での、その使い方や関連する用語などから派生した新しいもの言いは、これまでも「インストール」とか「OS」とか「●●2.0」とか、あれこれすでに侵入してきてるし、自分も便利に使ったりするけれども、この「アップデート」というのもまあ、そういう類いではあるんだろうな、と。

 いちばん素朴な意味としては、「最新のものに更新されていない」という感じだろうか。これだと当然、それ以前の情報は上書きされて消されているというイメージなんだろう。つまり、現在動いて稼動しているのは最新の知識や認識だけ、というわけで、オンナの恋愛は「上書き」、オトコの恋愛は「名前をつけて保存」なんてこともすでに言われてきているけれども、そういう意味ではこの「アップデート」ってのは、この「上書き」に近いんだろう。比喩として使う場合も、つまり「最新」の状態になっていない、最も新しい情報が仕入れられていない、だからいま現在の状況では役に立つような仕事ができない、本来の機能が充分に発揮できない、といった意味あいまで、そのもの言いの向こう側に含まれているように感じる。

 でも、ひっかかるわけじゃないけど、この「アップデート」にはそれまでの経験とか体験、見聞その他、生身のイキモノとしてそれなりに生きてきた上での何ものか、というのは想定されていない。経緯や来歴、文脈などは関係なく、ただ「新しい」「最新の」知識や情報「だけ」が「上書き」されて現在稼動中、と。そういう稼働中が当たり前なのが〈いま・ここ〉ということで、アップデートしていない人間は〈いま・ここ〉の現在にはうまくなじめないし役に立たない。アップデートされているということは、それ以前にあったものは全部「消去」「削除」されていて、そしてそれは探そうにも探せない見つけられないものに、あるいはすでにこの世に存在しないものになっている、と。パソコンやIT機器などはともかく、こと生身の人間についてならば、個々の年齢に応じてそれなりに重ねてきているはずの経験などの部分はなかったことにされて、常に現在、眼前の状況に対応できるかどうか、そういう状態になっているかどうか、だけが価値判断や評価の基準になっていて、そりゃそういうことなら、「年功序列」だの「経験」だのに頼った組織や集団の「序列」なんてものは、とっとと崩壊してゆくのもある意味当然なんだろうと思う。

 そういう「最新」だけが「役に立つ」という発想なのかも知れない。それもソフトのレベルだけの話で、それが動くハードのレベルは想定外。アップデートがかけられてゆくのも、ハードもまた最新のものに更新されているのが必要条件だったりする。でも、そういう「最新」の知識や情報が「動く」ハード≒生身かどうか、というあたりのことも現実にはあり得る問いだと思ったりするこちとらアラカン老害脳なのだが、そんなこと知ったことではないらしく、もはや人間にも同じことが要求されていて、単なる知識や情報などを新たに仕入れたりするだけでなく、ハードの側、つまり生身のカラダや脳みそその他もそれら新しい知識や情報に応じて鍛え直さねばならない、ということになってくる。

 それは、新しい情報環境に「慣れる」や「習熟して対応する」などの時間的経緯と共に生身に期待されるものとは微妙に違う、そもそもの肉体的な能力やキャパシティなどから否応なく適不適を判断されてしまうようなもの、といった印象が強い。旧式型落ちのマシンでも何とかアップデートかけて対応して動けるようになるかも知れない、でもそんなの待ってられないし何より時間も手間もかかるらしい、だったらとっとと新しいマシンに入れ替えちまえばいいだろう、それも自腹で買って維持管理や減価償却その他あれこれ面倒なことがまつわってくるより、リースやレンタルで必要な時に必要なだけ最新のハードを準備しておくようにする方が「合理的」だし「効率的」だ――同じことを人間に対してもやるのが「アウトソーシング」とやらのカタカナ能書きで導入される外注丸投げで、結果派遣や非正規労働がどんどん増えてゆく、という構造と基本的によく似ている。というか、同じこと同じリクツの上に動いている〈いま・ここ〉の現実、ということなのだろう。

 「時代遅れ」という言い方がかつてはあった。あるいは、昨今の英語圏のもの言いでは “old school ” などとも言うらしい。これは「アップデートをしていない」といういまどきのもの言いと同じようでいて、しかし違いがあるような気もする。「時代遅れ」でも、 “old school ” でも、そのように意味づけられてしまった存在自体がいきなり消えてなくなってしまうことまでは、おそらく想定していないのではないか。時代遅れで型落ちで、最新の技術からすれば旧式流儀のやり方しかできなくて、でもそういう存在そのものは同じ現在、〈いま・ここ〉に存在している、良くも悪くも。存在してしまっているものは、いくらそれが現在の局面では「役立たず」になったとしても、それでも存在はし続けてしまう。そのことについての尊厳と、それを最低限尊重するという感覚が、個人の半径身の丈の、言い換えれば「私」の水準だけでなく、それらの先、いわゆる「公共」の水準も含めての約束ごととして、われわれの社会には本当に共有されているのかどうか。

 「アップデートがかけられていない」存在は、その存在自体がもう許されなくなってしまう。リース流れやレンタル落ちの機械や品物と同じように、最新のものや技術で成り立っている同じ〈いま・ここ〉にいる/あることを許容されない。そんなにまで現在ということ、そこで「最新」であることが存在する/できる最低限の条件になりつつあるのだとしたら、その現在に連なるこれまでも、そしてこれから先も、ひとつの一連の流れとして認識することもまた、必要なくなってきているのだろう。なのに、どうして、いや、だからかも知れないけれども、何にせよ「キャリアパス」だの「ポートフォリオ」などという例によってのカタカナもの言いと共に、すでに存在しなく/できなくなっているかも知れないそれらリニアーな「流れ」という形で、われわれの生きる現実をむりやり見させて形にさせるような抑圧ばかりがかかりつづけているのだろう。