「運動」の手法の終焉・メモ②

 すごく具体的に表現すると「理不尽な暴力的手段でカツドウカが暴れたらマスコミが乗っかってきて政党政治家が利用して、下々の民の断りもなく勝手に世の中を変える不当感」というのは、もう今後無視しちゃダメなんだと思う。


 納得できない理不尽な手段で騒ぎが起こって、社会運動家とマスコミと政党政治家が結託して、自分たちの頭越しに断りもなく社会を変えていくという構図に、もうみんな附き合い切れなくなっているんですよ。


 そういう社会状況の変化を無視して七〇年代みたいな社会運動観で政治イシューを考えても、もう社会は動かなくなりつつあるということじゃないですかね。

 総括は他人を吊し上げる為にするもので、己が内省と共にするもんじゃないのがあの方々と理解しています。


 多分それが習い性になってるから不可能なんじゃないかと。国鉄分割民営化反対テロの時代と全く考え方が変わっていない。

 社会運動が会社のスポーツイベントに一瞬思えてしまった。まぁ会社イベントすら嫌われるご時世に社会運動なんてお呼びじゃ無いんですよ。

 この30年、社会運動?が「労働者」を守った実績も無いですものね。